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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」11世紀

①ヨーロッパ

封建社会の成立〉

度重なる外部勢力の侵入から生命財産を守るために、主君が家臣ni封土を与えて保護するかわりに、家臣は主君に中世を誓って軍事的奉仕の義務を負う封建的主従関係が生まれた。封建的主従関係を結ぶ有力者たちは、それぞれが大小の領地を所有し、農民を支配する領主だった。領主の個々の所有地を荘園といい、荘園を経済的基盤として、その上に封建的主従関係による階層組織を持つ社会を封建社会という。封建社会は10〜11世紀に成立し、西ヨーロッパの中世世界の基本的な骨組みとなった。

 

カノッサの屈辱

封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威を及ぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園を持つ大領主でもあった

 

高位の聖職者が諸侯と並ぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物をその地位に任命し、教会に介入するようになった。世俗権力の影響をうけた教会では、聖職売買などさまざまな弊害が生じた。

 

教皇グレゴリウス7世聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとした神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世はこれに反発し、教皇と皇帝とのあいだで叙任権闘争が始まった。皇帝は改革を無視しようとしたため、教皇は彼を破門。ドイツ諸侯は破門解除がなければ皇帝を廃位すると決議したため、1077年皇帝はイタリアのカノッサ教皇に謝罪し許された

 

〈第一回十字軍〉

11世紀に東地中海沿岸に進出し、聖地イェルサレム支配下においたセルジューク朝は、ビザンツ帝国をおびやかしたので、ビザンツ帝国教皇に援助を要請した。教皇ウルバヌス2世1095年クレルモン宗教会議を結集し、聖地回復の聖戦をおこすことを提唱した。翌1096年、各国の諸侯や騎士からなる第1回十字軍が出発し、1099年イェルサレムを占領してイェルサレム王国をたてた

 

②西・中央アジア

セルジューク朝の拡大〉

中央アジアから西方に進出したトルコ人セルジューク朝マムルーク(騎馬戦士として優れているトルコ人奴隷)を採用し、強力な軍隊組織を整えた。建国者トゥグリル=ベクは1055年にブワイフ朝を追ってバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。

 

スンナ派を奉ずるセルジューク朝は、シーア派ファーティマ朝に対抗してバグダートやイスファハーンなど、領内の主要都市に学院マドラサを建設し、スンナ派の神学と法学を奨励して学問の育成につとめた。セルジューク朝アナトリアやシリアの海岸地帯にも進出してビザンツ領を圧迫したので、ヨーロッパのキリスト教国が十字軍をおこす原因となった。

 

〈カラハン朝とガズナ朝

同じトルコ人カラハン朝は、東・西トルキスタンをあわせてこの地方にイスラーム文化を導入。アフガニスタンガズナ朝は、10世紀末から富の獲得を目的に北インドへの侵入を開始した。

 

③東南アジア

イラワディ川下流域では、9世紀までビルマミャンマー)系のビュー人の国があったが、11世紀にはバカン朝がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。

 

ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏大越(ダイベト)国をたて、李朝を成立させ。

 

④中国

※宗(北宋)(960〜1127)

王安石の新法〉

北宋では、契丹西夏など北方民族の圧迫をうけ、また集権的な軍制をとっていたため、防衛費の増大による国家財政の窮乏がつねに大きな問題であり、その対策が国内の政治の焦点になっていた。

 

11世紀後半の神宗は、王安石を宰相に起用して政治の根本的改革をはかった。彼の改革は、農民や中小商工業者の生活安定と生産増加をはかりながら、同時に経費節約と歳入増加による国家財政の確立と軍事力の強化を目指す富国強兵策であった。しかし、地主や大商人の利益をおさえて政府の収入の増加をめざすこの急激な改革に対しては、反発する官僚たちも多く、王安石の引退後、新法党と旧法党との対立が長く続いて、さらに宗の国力を弱めることになった。

 

⑤日本(平安時代

藤原道長太政大臣となる(1017)

・藤原頼道、平等院鳳凰堂を建立(1053)

白河上皇院政を始める(1086)

「教科書で学ぶ世界史」10世紀

①ヨーロッパ

ビザンツ帝国(610〜1453)

西フランク王国(843〜987)

神聖ローマ帝国(962〜1806)

神聖ローマ帝国のはじまり〉

東フランク(ドイツ)では、10世紀初め、カロリングの血統がとだえ、各部族を支配する諸侯の選挙で王が選ばれるようになった。ザクセンの王オットー1世は、ウラル語系のマジャール人やスラブ人の侵入を退け、北イタリアを制圧して、962年教皇からローマ皇帝の位を与えられた。これが神聖ローマ帝国のはじまり

 

〈西フランクの分裂〉

西フランク(フランス)でも10世紀末にカロリング家の血筋が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位についてカペー朝を開いた。しかし、王権はパリ周辺など狭い領域を支配するのみで極めて弱く、王に匹敵する大諸侯が多数分立していた。

 

〈イタリア都市の独立〉

イタリアもカロリング家は断絶し、神聖ローマ帝国の介入やイスラーム帝国の侵入などで国内は乱れた。ローマを中心にした教皇領とならんで、北イタリアにはジェノヴァヴェネツィアなどの都市が独立した。

 

〈外部勢力の侵入〉

8世紀から10世紀のあいだ、西ヨーロッパは絶えず外部勢力の侵入にみまわれていた。東方からはスラブ人フランク王国を脅かし、イスラーム勢力はたえず南イタリアや南フランスに侵攻した。また、アヴァール人やマジャール人も東方から侵入を繰り返した。

 

スカンディナヴィア半島ユトランド半島には、ゲルマン人の一派に属するノルマン人が住んでいた。彼らの一部は8世紀後半から商業や海賊・略奪行為を目的として、ヨーロッパの各地に本格的に海上遠征をおこなうようになった。ヴァイキングとしておそれられた彼らは、10世紀初めに北フランスに上陸してノルマンディー公国をたてた。

 

一方、リューリクを首領とするノルマン人の一派(ルーシー)はドニエプル川流域のスラブ人地域に進出して9世紀にノヴゴロドを、ついでキエフ公国を建設し、これがロシアの起源となった。

 

②西・中央アジア

アッバース朝(750〜1258)

後ウマイヤ朝(756〜1031)

※サーマーン朝(875〜999)

※ハムダーン朝(905〜1004)

ファーティマ朝(909〜1171)

ブワイフ朝(932〜1062)

イスラーム帝国の分裂〉

アッバース朝ハールーン=アッラシードの治世に黄金時代を迎え、バグダードは100万人近くの人口をかかえる大都市に発展した。しかし、その死後から帝国内のエジプトやイランには独立の王朝がつぎつぎと成立し、カリフの主権がおよぶ範囲はしだいに縮小した。

 

シーア派のなかでも急進的な一派のファーティマ朝は、10世紀初め北アフリカにおこり、969年にはエジプトを征服してナイル川の東岸に首都カイロを造営した。この王朝は建国の初めからカリフの称号をもちい、アッバース朝カリフの権威を正面から否定した。後ウマイヤ朝の君主も、ファーティマ朝に対抗してカリフの称号を用いたので、イスラーム世界は3人のカリフが並び立つ分裂状態となった。

 

さらに、イラン人の軍事政権ブワイフ朝は946年にバグダードに入城し、カリフから大アミール(軍司令官の中の第一人者)に任じられるとともに、カリフにかわってイスラーム法を施行する権限を与えられた。

 

③中国

※唐(618〜907)

五代十国(907〜979)

※宗(北宋)(960〜1127)

〈唐の滅亡〉

人口増加や商業の発達にともない、農民の間に貧富の差が開き、没落して逃亡する農民が増えたため、均田制・租調庸制・府兵制が崩れていった。府兵制のかわりに、傭兵をもちいる募兵制が採用され、その指揮官である節度使が辺境の防備にあたるようになった。9世紀後半、塩の密売人の黄巣がおこした反乱黄巣の乱は全国に広まり、10世紀の初めに、唐は節度使朱全忠に滅ぼされた。

 

〈五代の分裂時代〉

朱全忠後梁を建国し、以後50余年間に華北では有力節度使のたてた五つの王朝が交替し、またその他の地方でも10あまりの国が興亡したので、この時代を五代十国という。

 

契丹(キタイ)の勢力拡大〉

唐滅亡後、遼河上流で半農半牧の生活を営んでいた契丹(キタイ)は、ウイグルの衰退とともに勢力を強めた。10世紀はじめには東モンゴル中心に、耶律阿保機(やりつあぼき)(太祖)が強力な国家をつくり、東は渤海を滅ぼし、西はモンゴル高原をおさえた。

 

〈宗の統治〉

五代の後周の将軍であった趙匡胤(ちょうきょういん)は、960年に宗(北宋を建国し(太祖)、つぎの太宗は各地に残っていた地方勢力を平定して中国主要部を統一した。

 

④朝鮮

※高麗(918〜1392)

朝鮮では新羅にかわって王建が開城を都として高麗をたてた。

 

⑤日本(平安時代

平将門の乱(935〜940)

「教科書で学ぶ世界史」8〜9世紀

①ヨーロッパ

フランク王国(メロヴィング朝)(481〜751)

※ビサンツ帝国(610〜1453)

フランク王国(カロリング朝)(751〜843)

メロヴィング朝からカロリング朝へ〉

フランク王国は6世紀半ばに全ガリアを統一したが、8世紀にはメロヴィング朝の権力は衰え、アラビア半島から急速に広がって地中海世界に侵入したイスラーム勢力がフランク王国にも迫りつつあった。

 

ウマイヤ朝時代、アラブ人のイスラーム勢力が北アフリカを西進し、イベリア半島に渡って西ゴート王国を滅ぼし(711年)、さらにピレネー山脈をこえてガリアに侵攻しようとした。メロヴィング朝の宮宰カール=マルテルは、732年トゥール・ポワティエ間の戦いイスラーム軍を撃退し、西方キリスト教世界を外部勢力からまもった。その子ピピンは、751年メロヴィング朝を廃して王位につき、カロリング朝を開いた。

 

教皇領の始まり〉

726年、ビザンツ皇帝レオン3世は、聖像禁止令を発布。ゲルマン人の布教に聖像を必要としたローマ教会はこれに反発し、東西の両教会は対立と分裂をいっそう強めた。

ローマ教会はビザンツ皇帝に対抗できる政治勢力として、フランク王国に接近をはかり、カール=マルテルの子、ピピンがフランク王位を継承することを認め、返礼としてピピンはイタリアのランゴバルド王国を攻め、奪ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した(ピピンの寄進)。これが教皇領のはじまり。

 

〈カールの戴冠(たいかん)〉

ピピンの子、カール大帝は西ヨーロッパの主要部分を統一し、フランク王国ビザンツ帝国にならぶ強大国となった。教皇レオ3世はカールにローマ皇帝の帝冠を与え「西ローマ帝国」の復活を宣言した。カールの戴冠は、西ヨーロッパ世界が政治的・文化的・宗教的に独立したという重要な歴史的意味をもつ。

 

フランク王国の分裂〉

カール大帝の死後内紛がおこり、843年のヴェルダン条約870年のメルセン条約により、帝国は東・西フランクとイタリアの3つに分裂した。これらはそれぞれのちのドイツ・フランス・イタリアに発展した。

 

②西・中央アジア

ウマイヤ朝(661〜750)

アッバース朝イスラーム帝国)(750〜1258)

後ウマイヤ朝(756〜1031)

ウマイヤ朝からアッバース朝へ〉

コーラン」には、すべての信者は平等であると説かれている。そのため征服地の新改宗者(マワーリー)は、ウマイヤ朝の政策を「コーラン」の教えにそむくとみなし、アラブ人の中にも、ウマイヤ朝による排他的な支配を批判するものが出てきた。このような人々は、ムハンマドの叔父の子孫であるアッバースの革命運動に協力し、これが成功して750年にアッバース朝が開かれた。第2代カリフのマンスールは、肥沃なイラン高原の中心に円形の首都バグダードを造営し、新帝国の基礎を固めた。アッバース朝が建国されると、ウマイヤ朝の一族はイベリア半島に逃れ、756年コルドバを首都とする後ウマイヤ朝をたてた。

 

③インド

※地方政権の時代

 

④ジャワ

※シャイレンドラ朝(8〜9世紀)

ジャワでは仏教国のシャイレンドラ朝がうまれた。シャイレンドラ朝のもとでは仏教寺院のボロブドゥールが建造されたが、その後ヒンドゥー勢力が強くなっていった。

 

⑤中国

※唐(618〜907)

〈唐と隣接諸国〉

8世紀半ばに東突厥を滅ぼしたウイグルは、唐代中期以降の混乱に乗じて中国を圧迫したが、9世紀にはキルギスに敗れて滅亡した。

 

チベットでは7世紀にソンツェン=ガンポ統一国家を建設した吐蕃(とばん))。インド系文字を基にチベット文字がつくられ、インド仏教とチベット民間信仰が融合したチベット仏教ラマ教が生まれた。

 

⑥朝鮮

新羅(356ごろ〜935)

渤海(698〜926)

唐が新羅と連合して百済高句麗を滅ぼした後、新羅朝鮮半島の大部分を支配した。新羅は唐の官僚制を導入したが、社会の基盤は骨品制といわれる氏族的な身分制度だった。新羅は仏教を保護し、首都の金城(慶州)を中心に仏教文化が繁栄した。

 

高句麗の滅亡後、大祚栄(だいそえい)が中国東北地方に建国した渤海は、唐の官僚制や、都城プランを熱心に取り入れて日本とも通交し、8〜9世紀に栄えた。

 

⑦日本

飛鳥時代

大宝律令制定(701)

遣唐使派遣、日本の国号を名のる(702)

奈良時代

平城京遷都(710)

平安時代

桓武天皇平安京遷都(794)

坂上田村麻呂征夷大将軍として、蝦夷征伐(797)

最澄天台宗を開く(805)

空海真言宗を開く(806)

遣唐使の停止(894)

「教科書で学ぶ世界史」7世紀

①西・中央アジア

ウマイヤ朝(661〜750)

イスラム教の誕生〉

6世紀後半になると、ササン朝ビザンツ帝国が争いを繰り返したため、東西を結ぶ「オアシスの道」は両国の国境で途絶え、「オアシスの道」や「海の道」によって運ばれた各種商品は、アラビア半島西部を経由するようになり、メッカの大商人は国際的な中継貿易を独占して大きな利益をあげていた。

 

メッカに生まれたクライシュ族の商人ムハンマドは、610年頃、唯一神アッラーのことばを授けられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって厳格な一神教であるイスラーム教をとなえた。しかし、富の独占を批判するムハンマドはメッカの大商人の迫害をうけ、622年に少数の信者を率いてメディナに移住し、ここにイスラーム教徒(ムスリム)の共同体(ウンマ)を建設した。この移住をヒジュラ(聖遷)という。

 

630年、ムハンマドは無血のうちにメッカを征服し、多神教の神殿であったカーバイスラーム教の聖殿に定めた。その後アラブの諸部族はつぎつぎとムハンマド支配下に入り、アラビア半島のゆるやかな統一が実現した。

 

イスラーム世界の成立〉

ムハンマドの死後、イスラーム教徒の指導者としてアブー=バクルカリフ(後継者)に選出した。アラブ人はカリフの指導のもとに大規模な征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し、東方ではササン朝を滅ぼし、西方ではシリアとエジプトをビザンツ帝国から奪い、多くのアラブ人が家族をともなって征服地に移住した。しかし、まもなくカリフ権をめぐってイスラーム教徒間に対立がおこり、第4代カリフのアリーが暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィヤは、661年ダマスクスウマイヤ朝を開いた。アブー=バクルからアリーまでの4代のカリフを一般に正統カリフという

 

②ヨーロッパ

ビザンツ帝国東ローマ帝国)(395〜1453)

西ゴート王国(418〜711)

フランク王国(481〜843)

 

③インド

※ヴァルダナ朝(606〜7世紀後半)

グプタ朝が、中央アジアのエフタルの進出や地方勢力の台頭によって6世紀半ばに滅亡した後、ハルシャ王ヴァルダナ朝をおこして北インドの大半を支配したが、その死後、急速に衰退した。

 

④中国

※隋(587〜618)

※唐(618〜907)

〈隋の滅亡〉

文帝の子燿帝(ようだい)のときに完成した大運河は、南北朝時代に開発のすすんだ江南を華北と結ぶつける、中国史上はじめての南北の交通幹線だった。しかし、これらの大土木事業や周辺諸国への度重なる遠征に徴発された農民の困窮ははなはだしく、高句麗遠征の失敗をきっかけに各地で反乱がおこり、隋は統一後30年たらずで滅んだ。

 

〈唐の隆盛〉

隋末の反乱のなかで挙兵した軍閥李淵(りえん)は、618年に隋を倒して唐をたて、長安を都とした。2代目の太宗は中国を統一するとともに東突厥の主力を服属させ、つづく高宗は、東は百済高句麗を破り、西は西域のオアシス都市を領有して勢力圏を広げた。

 

⑤日本(飛鳥時代

厩戸王聖徳太子)、十七条憲法制定(604)

小野妹子を随に派遣(607)

遣唐使派遣始まる(630)

大化の改新(645)

中大兄皇子中臣鎌足らの協力をえて蘇我氏をたおし、公地公民を原則とする改革をはじめる。

白村江の戦い(663)

百済からの救援で大軍を送ったが、唐・新羅連合軍に敗北

壬申の乱(672)

天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大友皇子天皇の子)と、大海人皇子天皇の弟)の間におこった内乱。大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位。

「教科書で学ぶ世界史」6世紀

西アジア

ササン朝ペルシア(224〜651)

〈エフタルの滅亡〉

ササン朝は5世紀後半に、中央アジア遊牧民エフタルの侵入を受けたが、ホスロー1世の時代にトルコ系遊牧民突厥と結んでエフタルを滅ぼし、また、ビサンツ帝国との戦いも優勢にすすめ、和平を結んだ。

 

②地中海

東ローマ帝国(ビサンツ帝国)(395〜1453)

西ゴート王国(418〜711)

ヴァンダル王国(429〜534)

※ブルグンド王国(443〜534)

フランク王国(481〜751)

東ゴート王国(493〜555)

フランク王国の発展〉

481年にフランク王に即位したメロヴィンググローヴィスは、その後全フランクを統一し、東ゴート王国と並ぶ強国となった。当時、ほかのゲルマン人の多くが異端であるアナリウス派キリスト教を信仰していたのに対し、グローヴィスは正統派のアタナシウス派に改宗した。これは、フランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込んで、西ヨーロッパの中心勢力になる一因となった。6世紀半ば、フランク王国はブルグンド王国などを滅ぼして全ガリアを統一した。

 

〈ビサンツ帝国の繁栄〉

ユスティニアヌス大帝は地中海帝国の復興をはかり、北アフリカヴァンダル王国やイタリアの東ゴート王国を滅ぼし、一時的に地中海のほぼ全域にローマ帝国を復活させた。内政においては、「ローマ法大全」の編纂や、ハギア=ソフィア聖堂の建立などの事業に力を注ぎ、また、中国から養蚕技術を取り入れ、絹織物産業発展の基礎を築いた。

 

③インド

グプタ朝(318〜550ごろ)

グプタ朝の滅亡〉

グプタ朝は、中央アジア遊牧民エフタルの進出により西方との交易が打撃を受けたことや、地方勢力が台頭したことにより衰退し、6世紀半ばに滅亡した。

 

④東南アジア

※扶南(1世紀末〜7世紀)

チャンパー(2世紀末〜17世紀)

※真臘(しんろう)(6世紀〜)

〈真臘(カンボジア)の建国〉

1世紀末に東南アジア最古の国家とされる扶南メコン川下流域に建国された。インドから来航したバラモンと土地の女性が結婚して国をつくったという神話をもつ。また、2世紀末にベトナム中部にチャム人がのちにチャンパーと呼ばれる国をたてた。

 

6世紀にメコン川中流域にクメール人によってヒンドゥー教の影響の強いカンボジアがおこり、扶南を滅ぼした

 

⑤中国

南朝(420〜589)

北朝(439〜581)

※隋(581〜618)

〈隋による統一〉

北朝北周の軍人出身である隋の文帝(楊堅は都を大興城(長安)に定め、南朝の陳を倒して、南北に分裂していた中国を統一した。隋は南北朝時代の諸王朝でこころみられた制度を取り入れ、均田制・租調庸制・府兵制により財政・軍事の基礎を固めようとした。また、儒学の試験によって広く人材を求める科挙の制度をつくって中央集権化をはかった。

 

 

⑥日本(古墳時代飛鳥時代

・仏教の受容をめぐり蘇我氏(受容派)と物部氏(反対派)が対立

蘇我氏物部氏を滅ぼす(587)

厩戸王聖徳太子)、政務に参加(593)

「教科書で学ぶ世界史」5世紀

西アジア

ササン朝ペルシア(224〜651)

エフタル中央アジア遊牧民)の侵入

 

②地中海

東ローマ帝国(395〜1453)

西ローマ帝国(395〜476)

西ローマ帝国の滅亡〉

西ローマ帝国ゲルマン人の侵入で混乱をきわめ、476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝は退位させられ、西ローマ帝国は滅亡した。

 

ゲルマン人の大移動〉

西ゴート王国建国(418〜711)

4世紀後半、アジア系のフン人ドン川をこえて西に進み、ゲルマン人の一派である東ゴート人の大半を征服。さらに西ゴート人を圧迫。そこで、西ゴート人は375年に南下を始め、翌年にはドナウ川をわたってローマ帝国領内に移住した。西ゴート人は410年ローマを奪還した後、ガリア(ほぼ現在のフランス)西南部イベリア半島に移動して建国した。

 

ヴァンダル王国(429〜534)

ヴァンダル人が北アフリカに建国

 

・ブルグンド王国(443〜534)

ブルグンド人がガリア南部に建国

 

フランク王国(481〜813)

フランク人がガリア北部に建国

 

アングロサクソン七王国

アングロ=サクソン人がブリテンにわたり、9世紀までの間にアングロ=サクソン七王国ヘプターキー)をたてた。

 

③インド

グプタ朝(318頃〜550)

チャンドラグプタ2世のときに最盛期を迎え、北インド全域を統治する大王国に

 

④中国

五胡十六国(304〜439)→北魏(386〜534)

東晋(317〜420)→宗(420〜479)→斉(479〜502)

北魏による華北統一〉

華北では主に遊牧諸民族によってたてられた多くの政権が興亡していたが五胡十六国、5世紀前半に鮮卑拓跋(たくばつ)氏がたてた北魏武帝華北を統一した。

 

東晋の滅亡〉

江南では、東晋政権のもと、華北への反攻で成果をあげた武将の劉裕が実権をにぎり、東晋を倒して宗(そう)をたてた。その後、江南では斉(せい)梁(りょう)陳(ちん)の各王朝が短期間に興亡した。宗以降の4王朝を総称して南朝北魏以降の5王朝を北朝といい、南北朝の並立は約1世紀半続いた

「21世紀型スキルの育成③」概念の理解で世界を再構成する

「21世紀スキルを身につけるにはどうすればいい?」を考える上で、「学ぶとは何か?」についても概念を明確にしておいた方が良さそうです。

 

「学ぶ目的」を「知識を身につけること」と捉えると、teachingの発想から抜け出せません。また、「社会に適応するため」と捉えると、生きていくために必要な知識か否かを生徒自身に委ねる、あるいは周囲が強要する事になり、せっかくの学びの機会を奪ってしまうことにもなりかねません。

 

国立教育政策研究所「資質・能力を育成する教育課程の在り方に関する研究報告1」(P27、P55)に記載されている「学ぶ目的」に関する認識は、教育者と生徒双方にとって、学ぶ意欲を掻き立てる重要な認識だと感じました。

 

「学ぶ目的」は「社会を対象化し、それを主体的に再構成すること」「世界について理解を深め、自分たちの信念を変えていくこと」

 

また、国立教育政策研究所のレポートでは、思考力などの資質・能力を用いて学ぶ必要があるのは「概念」であり、それほど必要ではないのは「概念ではない/概念にはなりにくい事実的知識」であるとしています。

 

①「学びの質」とは概念を理解すること

「概念」とは「哺乳類」や「重力」など、世界を理解するために、人類が創造してきた認識のための道具。概念を本当に理解するためには、その概念で人類がどのような問題を解こうとしてきたかを捉える必要がある

 

概念を学ぶことで他の概念も理解しやすくなり、現象の不一致や例外がスッキリ理解できるようになり、新しい考えの道筋を照らしてくれる(「概念の理解は太陽のようだ」byアリストテレス)。

 

従来の内容重視の教育は特定の理論や概念、事実を学習者の「頭」に入れることを教育だと考えていた面があったのに対し、資質・能力教育では、それらを「使って」学習者自身が活動することを通じて世界について理解を深め、自分たちの信念を変えていくことが教育だと考えている面がある。

 

(例)重力

問題解決型の学習をしても、単に「重力」にまつわる体験やエピソードをためているだけでは、重力の概念理解に到達することは難しい。だからこそ、「重力」という概念を使って解くべき「問題」を提示できているか、そのために子供の日常生活をベースとした経験則を超えるような「教材」を与えられているかが重要になる。

 

(例)哺乳類

どんなものが「哺乳類」かを覚え、区別できたとしても、それがどういう生物分類上の問題を解決したかに全くつながらない理解であれば、「道具としての概念」を学んだことにはならない。それではテストで問われた時だけに思い出せる知識になり、子供自身が世界を理解し、世界の問題を扱うための生きた知識にはなりにくい。

 

②概念を理解するための問いかけ(振り返り)

概念を深く理解することを目的とするならば、子ども自身が世界や自己認識の刷新を感じ取ることが重要になる。教える側は「その活動を通して子どもたちが何

を考え、何を理解し、どのような問題が解けるようになり、世界をどのように説明できるようになるか」を明確にする必要がある。

 

教師、生徒双方が、以下のような問に答える(考える)習慣をつける事が有効。

「学んだことが何の役にたつか」

「日常経験ベースの考えを作り変え、世界を新たに理解できるようになったか」

「これまで分からなかったことで、今わかるようになったことは何か」

 

【今日の学び】

学ぶ目的は「社会を対象化し、再構成すること」「自己認識を刷新すること」そのための武器が「概念の理解」。概念の理解を具体的な指導案に反映できるよう、授業構成を見直していきます。21世紀スキルを育むためには、まずは指導する大人自身が、概念を理解し、日々社会と自己の認識を刷新するような学びを実践しているかが問われていると感じています。

 

【参考】

www.nier.go.jp