manabilife

教育・仕事・生活

「学び直し中学歴史」平安時代

平安時代は、公知公民の原則が完全に崩壊し、荘園(私有地)が拡大していく時代。荘園の警備のために武士団が形成されていく。

 

権力体制は、貴族の中で力を伸ばした藤原家による摂関政治天皇引退後、上皇になってからも権力を握る院政→武士から初めて太政大臣となり、要職を一族で固めた平家と移り変わっていく。

 

桓武天皇による平安京造営と律令政治の立て直し

(8世紀中頃)

政治の実権を巡って力を持つ貴族や僧が争うように

⇒奈良の寺院など、古い仏教勢力から離れるために784年、桓武天皇は都を長岡京に移す

→工事責任者の暗殺・度重なる水害

⇒794年平安京(現在の京都市)を造営

 

桓武天皇は、律令政治を立て直すために国司や郡司に対する監督を強化。律令のしくみを九州南部や東北地方に広げた。

→東北地方の蝦夷(首長アテルイ)が反乱

征夷大将軍として坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が鎮圧

 

②藤原家による摂関政治から上皇による院政

藤原家は、他の貴族をしりぞけつつ、自分の娘を天皇の后にして、生まれた子どもを天皇の位につけ、天皇との血縁関係を深めて政治勢力を拡大した。

 

藤原氏天皇が幼いときは摂政、成人後は天皇を補佐する関白という地位につく事で政治の実権を握り、高い官職をほぼ独占した。

 

藤原道長の歌)

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

※この世はまるで自分の世の中のようだ。満月が欠けることがないように、望みが全てかなって満足だ。

 

その後、藤原氏と関係が薄い後三条天皇が政治の実権を握って以降、摂関政治の力は次第に抑えられるようになる。後三条天皇の子の白河天皇は、位を譲り、上皇になってからも実権を握り続けた。これを院政といい、その後1世紀に渡って続いた。

 

②荘園の拡大と権力者への寄進

10世紀に入ると戸籍や班田収授の制度は行われなくなり、公知公民の原則は崩れた。貴族や寺社、地方の豪族はさかんに土地の開発を進め、墾田永年私財法によって、私有地である荘園を持つようになった。

 

しかし、荘園にも税がかけられるため、国司からの重い徴税よりも、権力者に荘園を寄進した方がメリットがあったため、藤原氏ら有力貴族のもとに全国から寄進された荘園が集まった。

 

有力な農民の中には、藤原氏などの有力な貴族に所有地を寄進し、土地の管理者である荘官に任命されることによって力を伸ばすものが現れた。

 

③武士の登場と平氏の繁栄

(10世紀中頃)

地方では領地や私有地の警備のため、武装する豪族や有力な農民が現れた(武士の登場)。

 

武士たちは、国司として地方に下った皇族の子孫である平氏と源氏を棟梁として武士団を形成するようになった。

→関東で平将門、瀬戸内で藤原純友を中心とする武士の反乱

⇒朝廷は武士の力(源氏)に頼って鎮圧

→武士は貴族の屋敷の警備や犯罪の取締にも力を発揮し、重く用いられるように。

 

1156年 保元の乱

後白河天皇 VS 崇徳上皇

→それぞれが武士を味方につけて争い後白河天皇が勝利

→もはや武士の力なくして政治の実権を握ることができない時代に

 

1159年 平治の乱

後白河上皇の近臣の対立

平氏 VS 源氏

平氏の勝利。源氏は棟梁の源義朝を失う。

平氏の棟梁、平清盛後白河上皇に重く用いられ、武士として初めて太政大臣に任命される。

平氏は朝廷の高い役職を独占(平氏にあらずんんば人にあらず)

・自分の娘を天皇の后にしてその皇子を天皇

・多くの荘園を一族のものに

・反対する貴族や武士を捕え厳しく取り締まる

→清盛が病死すると、新しい時代の担い手として源氏に期待が集まる