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「学び直し中学歴史」鎌倉時代

後白河上皇対立した平氏を討伐するため挙兵した源頼朝。弟義経の活躍もあり、平氏を滅亡に追い込んだ。その後、後白河上皇に重用された義経と頼朝は対立。頼朝は義経を討ち、1192年に鎌倉幕府を開いた。

 

頼朝死後、頼朝の后である北条政子の父、北条時政が政治の実権を握ってからは、北条氏による執権政治が続いた。

 

その後、幕府は2度に渡る元の襲撃を退けたが、防衛戦だったため御家人に十分な恩賞を与えることができず、幕府の権威と信用は失墜していく。

 

平氏の滅亡と源頼朝による鎌倉幕府のはじまり

平氏の滅亡〉

平安時代末期に朝廷での権力を牛耳っていた平氏は、後白河上皇と対立。上皇の息子の以仁王(もちひとおう)が全国の武士に平氏討伐を呼びかけた。

 

これに応えたのが源頼朝源義仲(頼朝のいとこ)の軍が都から平氏を追い落とし、頼朝の弟の源範頼(のりより)・源義経の軍が瀬戸内海に逃げた平氏を追撃した。

 

平氏は一ノ谷(兵庫)・屋島(香川)の戦いに敗れると、壇ノ浦(山口)に軍船を集結させて最後の決戦にのぞんだが敗北。一族の多くは安徳天皇平清盛の孫)とともに海に沈んだ。

 

〈頼朝と義経の対立〉

平氏滅亡後に源頼朝の勢力が拡大。白河法皇上皇が出家したあとの称号)は源義経に官位を与えて頼朝に対抗させようとした。

 

義経は挙兵し、法皇も頼朝討伐を命じた。頼朝は都にを送って法皇を圧迫。義経を捕らえるために自分の部下(御家人)を守護(警察・国内の軍事)や地頭(荘園や公領の管理・年貢の取り立て)として各地に置くことを認めさせた。

 

その後、平泉に逃れた義経奥州藤原氏に討たせ、義経をかくまったとして奥州藤原氏も攻め滅ぼした。

 

1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉に武家政治の拠点、鎌倉幕府を開いた。これにより、朝廷とは別に、幕府による政府ができた

 

鎌倉幕府のしくみと北条氏による執権政治

鎌倉幕府のしくみ〉

頼朝の死後、北条政子(頼朝の妻)の父、北条時政が政治の実権を握った。鎌倉幕府は将軍の下に将軍を補佐する執権を置き、中央に「侍所(軍事)・政所(財政、政治)・問中所(裁判所)」地方に「守護・地頭」を設置していた。北条時政は執権として幕府の政治を動かした(その後、北条氏による執権政治が続く)。

 

1232年、執権北条泰時により、御成敗式目武家社会の掟や裁判基準)が制定された

 

御家人は将軍の命令に従って戦いに参加したり、都の警備にあたっていた(奉公)。将軍は御家人の働きや手柄に応じて所領(土地)を与えた(御恩)

 

〈1221年:承久の乱

北条氏に反対する御家人と北条氏の対立。頼朝のあとをついで将軍となった頼朝の息子たちの暗殺など、幕府の動揺をみた後鳥羽上皇は1221年、全国の武士に呼びかけて幕府を討とうとしたが失敗。後鳥羽上皇隠岐島根県)に流された。

 

元寇鎌倉幕府の衰え

13世紀になると、モンゴル高原チンギス・ハンモンゴル帝国を築いた。5代皇帝フビライ・ハンは宋を滅ぼし、国号を元と改め、都を大都(現在の北京)に定めた。

 

フビライは日本に属国になるように使者を送ったが、朝廷と執権北条時宗はこれを拒否。元の襲来に備えて九州の守りを固めた。

 

〈1274年:文永の役

元は高麗(朝鮮)兵を含む3万の軍、900隻の軍船朝鮮半島を出港。対馬壱岐で守護が率いる軍を破ると北九州に上陸。九州各地から集まった御家人がこれを迎え撃った。御家人たちは「てつはう(火薬兵器)」など、武器や戦法の違いに苦戦していた。

 

しかし、武器を消耗した元軍は、日本軍の夜襲を恐れて軍船に引き上げて撤退。このとき軍船は暴風雨に襲われて元軍は大きな被害を受けた。

 

〈1281年:弘安の役

元は再び14万の大軍で北九州に攻め寄せた。御家人は前回の経験から上陸を許さない戦法をとり、約2ヶ月間、海岸沿いで上陸を食い止めた。その後、再び暴風雨によって壊滅的な損害を受け退却した。

 

2度に渡る元軍の襲来(元寇)は防衛戦だったため、幕府からの恩賞はほとんどなく、御家人たちは不満をつのらせていった。

 

1297年、幕府は徳政令を出し、御家人たちの借金を救おうとしたが、かえって社会を混乱させてしまった。

 

このころ、荘園を襲って年貢を奪う集団(悪党)が各地に出没したが、幕府はこれをうまく取り締まることができず、幕府の権威や信用は失われていった。