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教育・仕事・生活

「学び直し中学歴史」室町時代

後醍醐天皇足利尊氏新田義貞らによる鎌倉幕府の滅亡。

建武の新政に対する足利尊氏を中心とした武士の反発と南北朝の分裂。

跡継ぎ争い(応仁の乱)による幕府衰退と、下剋上の風潮の広がり。

戦国大名が争う時代に。

 

鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

後醍醐天皇が幕府に不満を持つ公家や武士に呼びかけて幕府を倒す計画を立てるが、その計画は漏れて、後醍醐天皇隠岐島根県)に流された。

 

しかし、楠木正成護良親王(もりよししんのう)は幕府との戦いを続け、後醍醐天皇隠岐から脱出し船上山(鳥取県)に立てこもった。

 

幕府は有力な御家人である足利尊氏の軍を京都に向かわせたが、尊氏は天皇側に味方して六波羅探題(朝廷の監視)を攻め滅ぼした

 

新田義貞も幕府に兵を挙げて鎌倉に総攻撃をかけ、1333年、鎌倉幕府は滅亡した。

 

都に戻った後醍醐天皇は、朝廷を中心とする新しい政治を始めた。これを建武の新政という。

 

南北朝への分裂と足利義満による合一

足利尊氏による幕府の再興〉

幕府を倒した武士への恩賞が十分でなかったことと、建武の新政が公家を重んじる方針だったため、足利尊氏武家政治の再興を呼びかけて兵を挙げた。

 

尊氏は天皇のもう一方の血筋と結びついて都を攻め、新たに天皇を立てた。後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れた。こうして、吉野(南朝)と京都(北朝)に2つの朝廷が並ぶ南北朝時代が60年間続くことになった。

 

1338年、足利尊氏北朝天皇から征夷大将軍に任命され、京都で幕府政治を復活させた。尊氏は足利一族の有力な武士を将軍の補佐役の管領(かんれい)に任命した。

 

尊氏は幕府への支持を得るため、荘園の米(年貢)の半分を守護に与えるというきまりを出した。各地の守護はこの決まりを利用して、領内の武士と主従関係を結んで強力な家臣団を築き、一国を支配する守護大名に成長した。幕府の政治体制は、守護大名による連合体という形態をとるようになった。

 

足利義満による南北朝の合一

幕府の全盛期は、3代の足利義満の時代。義満は京都の室町に「花の御所」と呼ばれる壮大な邸宅を完成させたため、足利氏の幕府は後に室町幕府と呼ばれるようになった。

 

1392年、足利義満皇位の象徴である三種の神器南朝から北朝にゆずらせる事に成功し、南北朝の合一を実現した。

 

1394年、義満は太政大臣になり将軍の座をゆずったが、幕府の実権を握り続けた。

 

応仁の乱から下剋上の時代へ

〈1467年:応仁の乱

義満の死後、守護大名の動きが活発になり、将軍が守護大名に殺される事件も起こった。

 

1467年、将軍家や管領家の跡継ぎを決める対立から応仁の乱がおこった。全国の守護大名は、細川氏を中心とする東軍と、山名氏らを中心とする西軍に別れ、11年間争いを続けた。このため、都は荒れ果て、幕府の力は大きく低下した。

 

また、たとえ身分が低いものでも、実力さえあれば手段を選ばず上のものを倒し、それにとって変わるという下剋上の風潮が全国に広がっていった

・山城(京都府)の国一揆

武士や農民たちが守護大名を追い出して自治を始める

一向一揆

一向宗浄土真宗)の信者が多い北陸地方では、一向一揆がおこり、守護大名を倒して1世紀に渡って信者による自治が続いた。

 

応仁の乱以降、幕府に全国をまとめる力はなくなり、各地で力を伸ばしていった戦国大名が自分の領国を管理し、近隣の大名と激しい戦いを繰り広げる事になる