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教育・仕事・生活

「学び直し中学歴史」江戸時代①〜江戸時代の政治変遷〜

徳川家康武家諸法度や参勤交代により、大名の権力をコントロールし260年続く江戸幕府の礎を築いた。その後江戸時代は度重なる財政難との戦いであり、将軍や老中の改革の歴史が積み重なっていく。倹約路線と消費路線を行きしながらいずれも行き詰まり、幕府の信頼は徐々に失墜していった。

 

江戸幕府の始まりとしくみ

〈豊臣家の滅亡〉

豊臣秀吉の死後、江戸に城を構え多くの大名を味方につけていった徳川家康と、豊臣家を継いだ豊臣秀頼をもり立てようとする石田三成が対立。

 

1600年の関が原の戦い徳川家康が勝利し、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開いた。

 

徳川家康1614年に大坂冬の陣翌年の大阪夏の陣で2度に渡り大阪城を攻め、豊臣家を滅ぼした。

 

江戸幕府のしくみ〉

将軍の下に老中と三奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行)を置き、重要な問題が起こると老中と三奉行の合議で方針を決定した。

 

将軍と主従関係を結んだ一万石以上の武士は大名と呼ばれ、徳川一門の親藩関ヶ原以前の家臣を譜代、関ヶ原以降の家臣を外様に分け、親藩や譜代を要所に、江戸から遠い地域に外様を配置した。

 

武家諸法度により許可なく城を改築したり、大船の建造を禁止。参勤交代(1年おきに領地と江戸を往復)によって多額の資金を使わせ、幕府に反抗する力を持たせないようにした。

 

領主による重税とキリシタン弾圧に反発しておこった島原・天草一揆長崎県熊本県)ののち、幕府はキリスト教の取締を強化するとともに、貿易の相手国をオランダ・中国・朝鮮に限り、交易の場も長崎・松前藩薩摩藩対馬藩の「4つの口」に制限した(鎖国

 

②江戸時代の改革の変遷

〈5代将軍徳川綱吉文治政治

武力に変わり、学問を政治の中心に置く方針

湯島聖堂を建て、儒学の祖、孔子をまつった。

・寺院や神社の修復、造営に力を注いだ

・生類憐れみの令(生命や自然の尊重、捨て子の禁止、動物愛護)

※綱吉の死後、新井白石文治政治を引き継いだ。

 

〈8代将軍徳川吉宗享保の改革

幕府財政の悪化に対処するために、質素倹約と文武の奨励を基本とする改革に取り組んだ。

・倹約令

・上米の制(一定量の米を幕府に献上する代わりに、参勤交代の負担を緩める)

・農民に新田開発を奨励

・公事方御定書(公正な裁判基準)

・目安箱(庶民などの声を直に聞く)

 

田沼意次:賄賂政治〉

商人の力を活用して幕府の財政立て直しをはかる。

・商人、手工業者が株仲間(同業者の組合)をつくる事を奨励。

⇒独占的な営業権を認める代わりに一定の営業税を納めさせる。

→特定の商人の利益と結びつくことも多く「賄賂政治」として批判を受ける

印旛沼などの干拓工事、新田開発

※1783年の浅間山の噴火、天候不順による冷害で多くの死者を出す天明の大飢饉がおきる。その後、社会不安から一揆や打ちこわしが多発。田沼は老中を退いた。

 

松平定信寛政の改革

徳川吉宗の孫で白河藩城主。天明の大飢饉白河藩から死者を出さなかったことから老中に任命された。吉宗の改革を手本とした倹約路線

・倹約令

御家人の借金を帳消しに

→一時的に武士の生活を救ったが、金を貸していた商人の不満を招いた。

・飢饉に備えるため倉を設けて米を蓄えさせ、商品作物の栽培を制限。

・湯島(東京都)に昌平坂学問所をつくり、朱子学を学ばせ、他の学問を禁じた。

※緊縮財政に取り組んだ定信は多くの批判をあび、6年余りで老中の座を退いた。

 

〈11代将軍徳川家斉:大御所時代〉

自ら政治に携わり、将軍職を退いてからも続いた。再び豊かさを求める気運が盛り上がりをみせ、江戸を中心とした町人文化が花開いた

 

水野忠邦天保の改革

・倹約令

人返しの法によって農民を村に帰らせた。

・株仲間が物価を釣り上げているとして株仲間解散を命じる

天保の改革は2年で失敗に終わり、幕府の権威はますます失墜した。