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「学び直し中学歴史」江戸時代②江戸幕府滅亡

1853年、アメリカ海軍提督ペリーが浦賀に来航し、日本に開国と通商を求めた。武力を背景とした強硬姿勢に押され翌年、日米和親条約が結ばれる。1856年には大老井伊直弼が朝廷の許しを得ずに日米通行通商条約を結んだ。

 

幕府に対する反感から尊王攘夷運動が高まりを見せていく。最初対立していた長州藩薩摩藩は、坂本龍馬らの仲立ちがあり薩長同盟を結ぶ。さらに、龍馬らは15代将軍徳川慶喜に朝廷へ政権を返すように進言。大政奉還が実現した。新政権内で権力を維持しようと考えていた慶喜だが、朝廷は1867年12月に王政復古の大号令を出し、天皇中心の新政府をつくる事を内外に示した。

 

①ペリー来航から尊王攘夷論の高まりまで

1853年6月浦賀沖(神奈川県)にアメリカ海軍提督ペリー来航

・100門の大砲を積む4隻の艦隊(黒船)

・日本との開国と通商を求める大統領の国書を携え

・国書への返答を求めて、翌年来航する事を伝え撤退

老中の阿部正弘らは、朝廷に報告するとともに諸大名に意見を求めた

→大名の発言力、朝廷の政治的権威を高める結果に

1854年日米和親条約

・下田(静岡県)、函館(北海道)を開港

アメリカ船へ食料や燃料を提供

・下田に総領事館を置く

→イギリス・オランダ・ロシアとも同様の条約を結ぶ

アメリカ領事館ハリスが幕府の役人に海外の情勢を伝え、通商条約の必要を強調

大老井伊直弼は、朝廷の許可を得ることなく、1858年日米通行通商条約を結ぶ

関税自主権なし

領事裁判権治外法権)を認める

→同様の不平等条約が、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれる。

→外国への屈服だとして、幕府の政策に不満をもつ大名や武士から不満の声があがる。

安政の大獄大老井伊直弼による批判するものへの厳しい処罰)

・批判する公家や大名の役職を解く・謹慎させる

・長州(山口県)の吉田松陰や越前(福井県)の橋本左内などの処刑

→井伊の政治に対する不満が高まる

1860年:桜田門外の変

水戸藩茨城県)の浪士らによる、江戸城桜田門外での井伊直弼殺害

⇒幕府に反対し、朝廷を中心として外国に立ち向かう尊王攘夷論が高まりを見せる

 

薩長の対立から薩長同盟まで

多くの藩が財政改革に失敗する中、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩山口県)といった外様藩はある程度成功をおさめ、幕府に対抗できる実力と意志を兼ね備えていた。

 

長州藩は、一部の公家を通じて朝廷との関係を深め、京都で大きな存在感を示していた。

 

長州藩に対抗して主導権を握ろうとしていた薩摩藩は、会津藩福島県)と結び、京都の禁門の変蛤御門の変)で長州藩兵を打ち破った

 

土佐(高知県)の坂本龍馬中岡慎太郎らは、幕府を倒して新しい政治を築くためには両藩の和解が必要だと考え、1866年、薩長同盟を結ばせる事に成功した。

 

以後、薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩佐賀県)を加えた薩長土肥が倒幕運動の中心勢力になっていった。

 

大政奉還王政復古の大号令

1864年、幕府は大名たちに命令を下して、幕府に反抗する長州藩を攻めた(長州征伐)。

 

長州藩は一度は屈したが、高杉晋作が藩の主導権を握ると、長州藩軍は幕府軍を各地で破った。そのさなかに14代将軍家茂(いえもち)が病死したため休戦した。

 

その後、15代将軍になったのは水戸藩出身の徳川慶喜。朝廷では幕府に理解のあった孝明天皇がなくなり、明治天皇が即位すると、武力で幕府を倒そうとする倒幕派が優勢になった。

 

公武合体(朝廷の権威と結びついて幕府の立場を強めようとする)の立場をとる土佐藩では、坂本龍馬後藤象二郎が、前藩主の山内豊信(容堂)を通して、慶喜倒幕派の先手を打って政権を朝廷に返上するように進言。慶喜は、幕府による政治はこれ以上続けられないと判断し、1867年10月、京都の二条城で政権を朝廷に返すことを発表した(大政奉還

 

慶喜は、天皇のもとに大名が集まる議会をつくり、自らがその議長になって実権を持ち続けようと考えていた。

 

しかし、これに反対する薩摩藩西郷隆盛大久保利通や、公家の岩倉具視らの活動によって、朝廷は1867年12月、王政復古の大号令を出し、天皇中心とする新政府をつくることを内外に示した。