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「学び直し中学歴史」明治時代②西南戦争と自由民権運動

外国との領土確定と国交成立、不平等条約の解消に邁進する新政府。岩倉具視をリーダーとする岩倉使節団と、留守政府を任された西郷隆盛板垣退助との認識のずれが

鮮明になっていく。

 

政府を去った西郷隆盛は、不満を募らせていた士族にお仕立てられ、西南戦争が始まる。しかし、新政府軍はこれを鎮圧。以降、士族による武力反発は沈静化していく。

 

変わって、全国的広がりを見せたのが、板垣退助を中心とする、言論によって国会開設を求める自由民権運動。政府内でも、国会開設の時期をめぐって伊藤博文大隈重信が対立。自由民権運動や政府内の対立を経て、1890年(明治23年)、第一回衆議院議員選挙が開かれた。

 

①新政府の外交課題

〈領土の確定と国交の成立〉

1871年:日清修好条規(清との正式な国交がスタート)

 

1875年:樺太・千島交換条約(対ロシア)

1854年の日露和親条約では、千島列島については択捉島以南は日本領、それより北はロシア領とされていたが、樺太については境界が定められていなかった。その結果樺太は両国人が雑居する地域になっていた。樺太・千島交換条約によって、千島列島は日本領、樺太はロシア領になった。

 

1876年:日朝修好条規

1868年(明治元年)、新政府が朝鮮に使節を派遣した際、国書に「皇」という文字(中国や朝鮮では中国の皇帝にし使ってはいけない)が使われている事を理由に、朝鮮は日本と外交関係を結ぶことを拒否。日本では、武力で朝鮮に開国を迫る征韓論が唱えられるようになる。1875年に朝鮮沿岸で測量中の日本の軍艦が砲撃される江華島事件をきっかけに朝鮮と交渉。翌年、日朝修好条規を結んで開国させた。

 

1876年:小笠原諸島日本領の国際的承認

 

1879年:琉球処分

琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として、琉球が日本領土である事を確認。

 

不平等条約の改正〉

幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約領事裁判権を認め、関税自主権がない)を改正するために、新政府は全力を傾けた。

 

外務大臣陸奥宗光は、欧米最大の影響力を持つイギリスにしぼって交渉を重ねた結果、1894年(明治27年)日英通商航海条約を結ぶことに成功。領事裁判権が5年後になくなることが決定した。

 

関税自主権は1911年(明治44年)を期限としており、小村寿太郎が外相のときに、関税自主権が回復した。

 

日本がアジアで初めて不平等条約の改正を達成した背景には、近代化の実績が認められたことや、アジアに勢力を伸ばそうとするロシアに備え、日本との友好関係を維持したいというイギリス側の思惑もあった。

 

西南戦争自由民権運動

岩倉使節団西南戦争

1871年、条約改正と予備交渉を目的に、岩倉具視を代表とする岩倉使節団が欧米に派遣された。使節団には大久保利通木戸孝允ら政府の中心人物約半数、100人以上が参加した。

 

約2年後に帰国した使節団のメンバーは、条約改正のためには、まず国内を整備し、国力を充実させるべきという意見で一致。征韓論派の西郷隆盛板垣退助らと対立。すでに決まっていた西郷隆盛の朝鮮派遣を大久保利通が強引に中止させ、西郷、板垣は政府を去った。

 

急激な改革が進む中、特権を失われていく士族の不満が高まり、各地で反乱が起こっていた。中でも最大のものが1877年の西南戦争で、鹿児島に戻っていた西郷をおし立てて3万人規模の士族による反乱がおこった。しかし、近代的な武器で装備された政府軍は激戦の末えこれを鎮圧した。

 

板垣退助自由民権運動

征韓論を主張して政府を去った板垣退助は、薩摩・長州出身者による藩閥政府を批判。1874年に民撰議員設立の建白書を政府に提出。高知県立志舎という政治団体を設立し、国会開設を求める自由民権運動が始まった。

 

西南戦争後、政府に反抗するのは武力ではなく言論によるものが主流になり、自由民権運動は全国に広まった。1880年、立志舎を中心とする全国組織:愛国社の呼びかけで大阪に集まった民権派の代表は国会期成同盟をつくり、国会開設を急ぐよう政府に呼びかけた。

 

政府内では、ただちに議会を開き政党内閣をつくるべきだとする大隈重信と、まだ時期が早いとする伊藤博文らの間で対立がおこる。政府は、北海道開拓使の施設や設備を不当に安い値段で払い下げしている問題に、大隈が関与しているとして、大隈を追放した。

 

しかし、もはや国会開設はさけられないとして1890年(明治23年)に国会を開くことを天皇の名で約束した(国会開設の勅諭)

 

政府は、伊藤博文が中心となり、憲法制定の準備にとりかかり、1885年(明治18年)、内閣制度をつくり、初代の内閣総理大臣に任命された。

 

民権派は、国会開設に備えて、相次いで政党を結成。板垣退助国会期成同盟を中心に自由党を、大隈重信立憲改進党を設立。演説会や新聞の発行で主張を広めた。

 

大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開始

伊藤博文井上毅らは君主権の強いプロイセン(ドイツ)の憲法を参考に憲法草案をつくり、1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法として発布された。天皇は改めて国の元首と規定され、帝国議会は選挙で議員を選ぶ衆議院と、華族や学識者、多額納税者の中から議員を任命する貴族院の二院が置かれ、法律を定める権限が与えられた。

 

1890年(明治23年)、第一回衆議院議員選挙が行われ、直接国税を15円以上納める25歳以上の男子に選挙権が与えられ、300人に議員が誕生した。有権者は総人口の1.1%、約45万人だった。