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教育・仕事・生活

「学び直し中学歴史」昭和時代①日中戦争

世界恐慌後の日本〜高まる軍の影響力〜

1929年(昭和4年)、ニューヨークの証券取引所での株価大暴落から発した景気後退(世界恐慌)は、アメリカとの貿易に頼っていた日本にも深刻な影響を及ぼした。広い植民地を持たない日本は、イギリスやフランスのように、ブロック経済のしくみを打ち出すこともできず、多くの失業者が生まれた。

 

貧困や大陸での日本権益が侵害されていることに対する憤りなどから、軍を中心とする全体主義的な政治を目指す思想が生まれる中、政府は1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮会議に参加し、補助艦の制限に合意。これに対して野党の政友会は、一部の軍部の意見に同調して、政府が天皇統帥権を犯しているとして激しく攻撃。首相の浜口雄幸は反対意見をおさえて、政府の方針を貫いたが、暴漢に襲われて重症を負い、退陣に追い込まれた。

 

②日本軍と国民党軍(蒋介石)との争い〜日中戦争

中国では1911年の辛亥革命のあと、軍閥による地方政権が各地に分立。孫文の後をついだ国民党の蒋介石は、南京に国民政府を樹立した。蒋介石は、中国の統一を目指して、張作霖が率いる北京政府を打倒する戦い(北伐)を開始した。

 

1928年(昭和3年)、北伐を進める国民党が済南に迫ると、田中義一内閣は現地在住の日本人保護のため山東省へ一時出兵し、日中両軍が衝突した。国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は日本政府の説得で満州に引き上げようとしたが、途中、一部の軍部の独断により、日本軍によって列車を爆破されて死亡した。

 

中国では、国民党が中心となって日本の中国権益の回収を求める排日運動が強化された。排日運動の激化に対し、日本国内では日本軍による満州権益の確保への期待が高まった。関東州と南満州鉄道を守るために置かれた日本軍部隊(関東軍)は、満州の占領を計画。1931年(昭和6年)9月、関東軍奉天郊外の柳条湖の満鉄線路を破壊して、中国軍による爆破と発表。満州の各地に軍を進めた(満州事変)

 

日本政府は関東軍の動きをおさえようとしたが、関東軍満州の主要都市を占領。清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を元首とする満州国を建国した。政府は関東軍の行動を追認。新聞や世論はこの動きを熱狂的に支持した。中国との話し合いによる解決を探っていた首相の犬養毅1932年(昭和7年)5月15日、海軍の将校らによって暗殺され、政党内閣は終わりをつげた(五・一五事件

 

満州事変に対して、国際連盟リットン調査団を派遣。調査団の調査に基づき、1933年(昭和8年)、国際連盟の総会で、満州国は独立国家として認めず、日本軍の満鉄沿線への撤兵を求める決議を可決した。日本政府はこれに反発して国際連盟を脱退。実質的に日本の支配下に置かれた満州国では、政治や経済の整備が進められ、中国本土や朝鮮からの住民の流入も続いた。

 

1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の一部青年将校らは、それまでの政治勢力を倒して、天皇を中心とする軍事政権樹立を目指して、千数百人の兵が東京中心部を占拠首相官邸や警視庁を襲い、おもだった政治家や大臣らを殺害した(二・二六事件)。これに対し、昭和天皇が鎮圧の意志を示したため、軍は反乱を鎮圧。その後軍は政治に対して強い影響力をもつようになった。

 

1937年(昭和12年)7月、条約に基づいて北京に駐屯する日本軍の部隊が、郊外の盧溝橋付近で訓練中に何者かの銃撃を受け、それが中国との戦闘に発展する事件が起こった。その後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず、8月には日本軍将校の殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大。日本と中国は全面戦争に突入していった。

 

日本軍は12月に首都・南京を占領。蒋介石は奥地の重慶に脱出して徹底抗戦の姿勢をとり、戦争は長期化していった。

 

日中戦争中の動き

1938年(昭和13年)国家総動員法

議会の合意なしに政府が物資や労働力を動員できる戦時体制を築くための法律

1940年(昭和15年)大政翼賛会発足

立憲民政党佐藤隆夫帝国議会で、日中戦争解決に関する演説を行い、軍部の怒りを買って議員を除名された。軍部の圧力で内閣が倒れたあと、近衛文麿が新体制の樹立を呼びかけると、各政党は解党を宣言し、10月には近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足した。

1939年(昭和14年)アメリカによる対日輸出制限強化

アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは議会の演説で、日本を非難。1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告し、対日輸出制限を強化した。日本では重要資源を産出する東南アジアに進出しようとする南進論が唱えられるようになった。

1940年(昭和15年)北部仏印駐留

アメリカ、イギリスによる中国への軍事援助ルートを断ち切るため、日本軍はフランス領インドシナ北部に兵を進めた(北部仏印駐留)。これに対してアメリカは日本への鉄などの輸出を禁じた。

 

1940年(昭和15年)日独伊三国軍事同盟

ヨーロッパではヒトラーの率いるドイツがイタリアと枢軸同盟を結び、オーストリアチェコを併合。ソ連と不可侵条約を結びポーランドに進行。オランダなどの近隣諸国を占領し、1940年にはフランスを降伏させた。

 

ドイツの快進撃に目を奪われた日本政府は1940年(昭和15年)日独伊三国軍事同盟の締結に踏み切った。さらに、ソ連を含めた四カ国協商を結ぼうとして日ソ中立条約を結んだが、ドイツは日本に事前の協議もなく不可侵条約を破ってソ連に攻め込んだことでその期待は裏切られた。

 

1941年(昭和16年)南部仏印進駐

1941年4月、悪化の一途をたどる日米関係の修復のため、ワシントンで日米交渉が始まった。しかし、アメリカは日独伊三国軍事同盟を敵視し、中国で蒋介石政権を支援していたため交渉は難航した。

 

日本は、使用する石油の多くをアメリカからの輸入に頼り、一部をオランダ領東インド(現在のインドネシア)から輸入していた。しかし、三国同盟によってオランダとの関係が悪化し、石油・ゴムなどの重要物資のインドネシアからの輸入が困難になった。そこで、日本政府は、東南アジア産出の重要物資を確保するため、フランス領インドシナ南部に軍を進めた(南部仏印進駐)

 

これに対し、アメリカは、国内にある日本の資産を差し押さえるとともに、石油の対日輸出全面禁止に踏み切り、日米の対立は決定的なものになった。また、アメリカは、イギリス、中国、オランダとともに日本を経済的に圧迫し封じ込めを強化した(ABCD包囲網