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教育・仕事・生活

「学び直し中学世界史」中国史①古代〜近世

①殷(BC1600年ごろ)

紀元前16世紀頃、中国の黄河流域に殷という国が建てられた。殷では青銅器や漢字のもとになる甲骨文字が使われた。殷は周に滅ぼされ、やがて周も衰え、その後は小さな国に分かれて争う春秋戦国時代が続いた。

②周

③春秋戦国

各国が軍備を強化する中で、鉄器の使用が広まり、国や社会を治めるための学問がさかんになり、孔子の説く儒教儒学)がおこった

④秦(BC221年:始皇帝が中国を統一)

始皇帝文字や貨幣を統一し、北方の遊牧民の侵入を防ぐために万里の長城を築いた。しかし、法を重んじ、皇帝の命令を全国に行き渡らせる政治はあまりにも厳しいものだったため、始皇帝の死後、各地で反乱が起こり、秦は滅びた。

前漢

秦にかわって中国を統一した漢は、朝鮮半島から中央アジアまで領土を広げた。

⑥新

後漢

57年(弥生時代)倭の奴国王が後漢に使者を送り、皇帝から金印を与えられる。

三国時代(魏呉蜀)

239年(弥生時代)、邪馬台国卑弥呼が魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印を授かる。

⑨晋

五胡十六国

南北朝

南北に国々が分かれて争っていたため、朝鮮半島への影響力は弱まっていた。

中国の南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、何度も皇帝のもとへ使者を送ってきたと記されている。大和朝廷古墳時代)が南朝朝貢していたのは、高句麗に対抗し、朝鮮での影響力を確保するためだった。

⑫随(589年:随が中国を統一)

分裂していた中国を統一した随の出現は、東アジアの国々にとって驚異となり、朝鮮半島百済新羅は随に朝貢した。聖徳太子小野妹子らを随に派遣し(遣隋使)、新しい国づくりのために中国の制や文化を取り入れた。607年(飛鳥時代)、妹子に託された随の皇帝、煬帝(ようだい)にあてた手紙には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書かれていた。これは、日本は独立国として中国と対等だという意味が込められており、煬帝はこれに激怒した。しかし、当時随は高句麗と対立していたため、日本と敵対する事は好ましくないという判断から、妹子らに使者を付き添わせて帰国させた。

 

随は、高句麗遠征や黄河と長江を結ぶ大運河の建設などを行い、人々に思い負担をかけたため、農民の間に反乱が起こり、唐によって滅ぼされた。

⑬唐(618年:唐が中国を統一→907年に滅びる)

唐は随にならって律令と呼ばれる法律を整備し、大帝国を築いた。東西の交流が活発になり、都の長安は人口100万人を超える国際的な都市として賑わった。

 

日本は唐の制度や文化を取り入れるため、7世紀前半から9世紀末(飛鳥時代平安時代前期)まで十数回にわたり遣唐使を派遣。遣唐使や留学生たちが日本に持ち帰った新しい政治や文化の知識や技術はその後の日本文化の発展に役立った。しかし、894年、唐が衰えたため、菅原道真の意見を採用し、朝廷は遣唐使を廃止した。

⑭五代

⑮宋(北宋)(960年:宋がおこる)

⑯金

⑰モンゴル→元(1271年:モンゴルが国号を元と改める)

13世紀になると、モンゴル高原に現われたチンギス・ハンが多くの部族を統一しモンゴル帝国を築いた。帝国は強力な騎馬隊ときびしい掟により領土を広げ、アジアだけでなくヨーロッパの一部にまで達する大帝国を築き上げた。5代皇帝フビライ・ハンの時代に宋(南宋)を滅ぼし、国号を元と改め、都を大都(現在の北京)に定めた。

 

フビライは武力を背景に高麗の使者を送り、日本に属国になるよう求めたが、朝廷と執権北条時宗はこれを拒否。元寇鎌倉時代)がおこった。

⑱明(1368年:明がおこり元が北に追いやられる)

14世紀後半(室町時代)の中国では、漢民族によって明が建国され、元は北に追われた。明は大陸沿岸一帯に大きな被害を与えていた海賊(倭寇)に苦しめられていた。幕府は明の求めに応じて倭寇の取り締まりを行う一方、明に貿易を申し出た。この貿易は朝貢貿易で、将軍は明の皇帝の臣下とみなされ、日本国王の称号を与えられていた時期もあった。倭寇と区別するために勘合という合い札を使ったので、勘合貿易日明貿易と呼ばれる。

⑲清(1644年:清が中国を平定)

明が17世紀に滅び、満州族の建てた清が中国全土を支配した。