manabilife

教育・仕事・生活

「学び直し中学世界史」中国史②近代・現代

①清(1644年:清が中国を平定)

1840年:アヘン戦争

清は欧米との貿易を管理するため、広州の港だけを開いていた。イギリスは清に輸出していた綿織物などが思うように売れず、貿易赤字の状態が続いていた。また、そのころイギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、清からの茶の輸入が急増していた。

 

イギリスはその支払いのための銀が不足すると、インドの農民に麻薬のアヘンを作らせ、清に密輸して茶や銀を手に入れた(三角貿易

 

麻薬中毒患者と多額の代金流出に悩まされた清は、アヘンを厳しく取り締まったが、これに対しイギリスは清に戦いをしかけた。イギリスは圧倒的な海軍力で勝利をおさめると、清にとって不平等な南京条約を結び、多額の賠償金を手に入れ、香港を植民地にして長く支配した。

1851年:太平天国の乱

キリスト教の影響を受けた洪秀全がおこした反乱。清朝打倒を目指し、南京を首都とする太平天国を建国した。アヘン戦争の戦費や賠償金の支払い、アロー戦争で国力を使い果たしていた清国政府は有効な手を打てず、鎮圧に10年あまりを要した。

※アロー戦争

広州でイギリス船アロー号の清国船員が逮捕されたことをきっかけに起こった戦争。清は降伏して北京条約を結び、公使の北京駐留や開港場の増加を認めた。ロシアはこの時アロー戦争の和平を仲介した報酬として、清から沿海州を手に入れ、日本海への出口であるウラジオストクを拠点としてその力を太平洋沿岸にも伸ばし始めた。

1871年(明治4年):日清修好条規

清との正式な国交が始まる

1894年(明治27年):日清戦争

朝鮮では、日本にならって近代化を進めようとする独立党と、清との関係を維持しようとする事大党が対立。1882年に改革に反発する軍人の暴動壬午事変、1884年に独立党の金玉均らがクーデターを起こしたが、清の軍隊によって鎮圧された。こうして、朝鮮は清国の勢力下に置かれた。

 

1894年、朝鮮で政府や外国勢力に反対する大規模な農民の暴動甲午農民戦争が起こり、清は朝鮮の求めに応じて「属国を保護する」という理由で出兵。これを認めない日本は清との取り決めに基づいて出兵したため、両軍が衝突し日清戦争が始まった。

 

日清戦争は日本が勝利し、1895年(明治28年)、下関講和会議が開かれ、下関条約が結ばれた。条約には、朝鮮が清の属国ではなく独立国であることが記され、清は遼東半島や台湾を日本に譲るとともに、多額の賠償金を支払うことに同意した。

 

それまで「眠れる獅子」と呼ばれ、存在感を示していた清はもろさを露呈したため、利権を求めるヨーロッパの国々は、競って清に勢力を広げようとした。

1900年:義和団事件

「扶清滅洋(清を扶けて外国の勢力を撃滅せよ)」を叫ぶ群衆と、列強に宣戦布告した清の軍隊が北京の各国の公使館を包囲した。これに対し、日本も参加した列強の連合軍はこれを打ち破った義和団事件義和団事件の後、清国政府と日本を含む11カ国の間に協約が結ばれ、清は多額の賠償金の支払いと、各国の護衛兵の北京駐留を承認した。

911年:辛亥革命

清は列強の進出に対処できず、三民主義を唱える孫文が清を倒して近代国家を目指す運動を展開した。1911年に辛亥革命がおこり、翌年、孫文が臨時大統領になってアジア最初の共和国となる中華民国の建国を宣言した。

三民主義

民族・民権・民生の3つの主義。孫文の中国革命理念であり、孫文が結成した中国国民党の指導理念。

 

中華民国(1912年成立)

1915年:日本が中国に二十一か条の要求を提出

第一次世界大戦のさなか、日本は山東省のドイツ権益を日本が引きつぐことや、関東州・南満州鉄道(満鉄)の租借期限の延長などを中華民国政府に要求。中国政府への日本人顧問の受け入れなどは、希望条項という理由で、日本は列強には通知しなかったが、中国はこれを列強にしらせ抵抗した。イギリス・アメリカは日本が中国での優越的地位を得ようとしているとして非難。日本は希望条項を撤回したが、中国に強硬な姿勢でのぞみ、要求の多くを受け入れさせた。これにより中国では反日運動がおこった。

1919年:五・四運動

清朝を倒した軍人の袁世凱(えんせいがい)が孫文に代わって大統領となり、独裁的な権力を握ろうとしたため、各地で反乱がおき、混乱状態になった。パリ講和会議で中国の山東省の旧ドイツ権益が日本に引き継がれることになると、これに抗議する活動が北京で展開され、やがて全国に広まった。

1921年(大正10年):ワシントン会議

ワシントン会議では中国に対する領土保全、貿易の機会均等などの方針も確認され、日本の山東省の権益が中国に返された。

1931年(昭和6年):満州事変

911年の辛亥革命のあと、孫文の後をついだ国民党の蒋介石は南京に国民政府を樹立。軍の近代化をはかるとともに、中国の統一を目指して張作霖が率いる北京政府を打倒する戦いを開始した(北伐)。

 

広東から南京、上海にまで勢力を伸ばした国民党軍に危機感をもったイギリスは、それまでの権益を守るために列強に共同出兵を強く促した。1928年に北伐を進める国民党軍が済南に迫ると、田中義一内閣は現地在住の日本人保護のため山東省に一時出兵し、日中両軍が衝突した。

 

国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は、日本政府の説得で満州に引き上げようとしたが、途中、日本軍によって列車を爆発され死亡した。

 

日本が権益を持っていた満州では、関東州と南満州鉄道を守るための日本軍部隊(関東軍)が置かれていた。山東省済南での衝突以降、中国では国民党が中心となって日本の中国権益の回収を求める排日運動が強化された。排日運動の激化に対し、関東軍は問題の解決をはかって満州の占領を計画。1931年9月、関東軍奉天郊外の柳条湖の満鉄路線を爆破して、中国軍による爆破と発表し、満州の各地に軍を進めた関東軍満州の主要都市を占領し、満州の有力者の一部を味方につけ、清朝最後の皇帝だった溥儀を元首とする満州国を建国した。

 

1933年の国際連盟の総会では、リットン調査団の調査に基づき、満州国を認めず、日本軍の満鉄沿線への撤兵を求める決議を可決。日本政府はこれに反発して連盟を脱退したが、中国政府との間には停戦協定を結び、満州事変は決着した。

1936年:西安事件

日本軍が満州に隣接する華北地域に親日政権をつくると、中国で抗日運動が高まった。中国では国民政府と共産党の内戦が続いており、共産党が劣勢だった。しかし、西安事件をきっかけに国民政府と共産党は協力して日本に対抗するようになり、両者による抗日民族統一戦線が作られた。

西安事件

抗日を唱える共産党に、国民政府軍の張学良張作霖の子)が同調して西安蒋介石拉致監禁し、内戦の停止と共産党と協力して抗日を要求した運動。

1937年(昭和12年):日中戦争

条約に基づいて北京に駐屯する日本軍の部隊が、郊外の盧溝橋付近での訓練中に何者かの銃撃を受け、それが中国との戦闘に発展する事件が起こった(盧溝橋事件)。その後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず、8月には日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大。日本と中国は全面戦争に突入していった。

 

日本軍は12月に首都南京を占領。蒋介石は奥地の重慶に脱出して徹底抗戦の姿勢を取り、戦争は長期化した。

 

アメリカは日独伊軍事同盟を敵視していたため、蒋介石政権を支援。南部仏印進駐を進める日本に対し、アメリカは日本の資産を差し押さえるとともに、石油の対日輸出全面禁止に踏み切り、イギリス、オランダ、中国とともに、日本の経済を圧迫し、封じ込めを強化した。

 

太平洋戦争開戦後は、枢軸国(日独伊)と連合国(米英蘭中など)の連合国との全面戦争となった。

中華人民共和国(1949年成立)

戦後の中国は、アメリカに支援された蒋介石が率いる国民党と、毛沢東が率いる共産党が再び内戦を開始共産党軍は国民党軍に勝利し、1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国が建国され、蒋介石は台湾に逃れた。

1972年:日中国交正常化

1978年:日中平和友好条約

ベトナム戦争の行き詰まりを打開するため、アメリカのニクソン大統領はソ連と対立する中国との接近をはかった。日本も1972年に日中共同声明を発表して中国との国交を正常化し、1978年に日中平和有効条約を結んだ。

1989年:天安門事件

1980年代の中国では鄧小平による改革が進められ、外国の資本や技術の導入による開放経済、国営企業の独立採算化など、おもに経済面での自由化を進めていた。しかし、政治面での民主化や自由化は抑えられていた。政治面での民主化が不十分なことに対し、学生や知識人の間に不満が高まり、1989年、学生や市民が北京の天安門広場に集まって民主化を要求した。中国政府は共産党独裁政治を守るためにこれを武力で押さえつけ、多くの死傷者を出した。

1997年:香港が中国に変換される