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「学び直し中学世界史」ヨーロッパ史(古代〜近代)

ギリシャ文明とローマ文明

ヨーロッパの地中海沿岸のギリシャでは、メソポタミア文明エジプト文明の衰退を受けて、紀元前8世紀頃からポリスと呼ばれる都市国家が作られるようになった。ポリスには広場と神殿があり、成人男子の市民が民主政治を行った。一方、イタリア半島では、都市国家のローマが栄えて領土を拡大し、紀元前1世紀には地中海一帯を支配しローマ帝国を築いた。

ローマ帝国(BC27年)

小さな都市国家だったローマは紀元前3世紀にイタリア半島を統一北アフリカ西アジアにも勢力を伸ばし、紀元前後には地中海一帯を支配するようになり、1〜3世紀に全盛期をむかえた。

キリスト教が国教になると、パンテオンはその教会堂になり今日に至っている。

 

③中世ヨーロッパ

11世紀のヨーロッパでは、ローマ教皇(法王)を頂点とするキリスト教会の力が強まっていた。そのころ、キリスト教徒にとって聖地だったエルサレムイスラム勢力下に置かれたため、ローマ教皇はヨーロッパの国王や諸侯(領主)に呼びかけて、聖地を奪い返すための軍隊(十字軍)を派遣した。それには、各国の王の領土欲や商人の利害も絡んでいた。2世紀に及ぶ遠征は結局失敗に終わった。

 

大航海時代

ヨーロッパの国王や商人は、莫大な富をもたらす金や銀、香辛料を求めて新航路を開拓し、積極的に海外に進出した。

ポルトガル

15世紀末、ポルトガルとスペインはイベリア半島からイスラム勢力を完全に追い払う事に成功。ポルトガル国王の命令により、バスコ・ダ・ガマらはアフリカ大陸の西海岸を南下し、喜望峰を回ってインドに到達する航路を開いた(1498年インド航路発見)。16世紀にアジア貿易を独占したポルトガルは、香辛料や絹織物などを本国に運んで繁栄した。

 

(スペイン)

スペインはコロンブスを派遣して大西洋を西に向かわせてアメリカ大陸の一部に到達(1492年アメリカ到着)マゼラン率いる船隊は、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を経て太平洋を横切り、世界一周に成功した(1519年〜22年)。

 

スペインは南北アメリカ大陸の独自の文明(アステカ王国(メキシコ中央高原)・インカ帝国(ペルー高原))を滅ぼして大半を植民地とし、大量の金銀をヨーロッパに運び繁栄した。

 

1494年:ドルデシリャス条約

ポルトガルとスペインは軍隊や商人、宣教師をアジアの諸地域と南北アメリカ大陸に送り、キリスト教を広めるとともに武力で多くの国々や地域を征服した。両国はローマ教皇の仲立ちで勢力範囲を定め、それぞれの地域の支配力を強めていった。

 

西半球を東西に分ける線が引かれ、線の東側で発見されるものはポルトガル、西で発見されるものはスペインに帰属するとされた。16世紀には同様の分界線が東半球にも引かれた。

 

 

(オランダ・イギリス)

16世紀末になると、スペインから独立したオランダが、17世紀になるとイギリスが国力を増し、ポルトガル、スペインに代わって海外での通商・植民活動の主役になっていった。

 

オランダ・イギリスの植民地経営は、それぞれの国の東インド会社を通じて行われた。東インド会社には貿易だけでなく、条約を結んだり、戦争をする権限なども与えられた。

 

⑤ヨーロッパ諸国の市民革命とアジア進出

(イギリス)

クロムウェルらがピューリタン清教徒)革命をおこして共和制(国民によって選ばれた代表者が支配者となり、議会で作られた法律にもとづいて政治を行う)に移った後、再び王政に戻ったが、1688年、政治の伝統や法を守らない国王を議会が追放して新しい国王を迎え、1689年に国王に対する国民の権利や議会の権限を認めさせる権利の章典を採択した名誉革命。これ以降イギリスでは立憲君主制が確立した。

 

18世紀半ば、イギリスで蒸気機関を利用した紡績機が発明されると、綿布の生産が急増し、イギリス産綿布は世界へ輸出された。新しい技術は鉄道や製鉄、機械、造船などの分野にも取り入れられ、工業生産の高まったイギリスは「世界の工場」と呼ばれた産業革命

1808年:フェートン号事件

18世紀末、ヨーロッパではフランスが勢力を強めオランダを征服。イギリスはこの機会にオランダの拠点を奪おうとアジアへの動きを活性化させた。

イギリスの軍艦フェートン号がオランダの船を追って長崎港に侵入。オランダ商館員を捕えて薪や水を強要。その後1824年にも大津浜(水戸藩)や宝島(薩摩藩)にイギリス船員が上陸し、略奪や食料・水などを要求した。

 

1840年:アヘン戦争

イギリスは清に輸出していた綿織物が思うように売れず、貿易赤字が続いた。そのころイギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、清からの茶の輸入が急増した。イギリスはその支払いのための銀が不足すると、インドの農民にアヘンを作らせ、清に密輸して茶や銀を手に入れた。麻薬中毒患者と多額の代金流出に悩まされた清は、アヘンを厳しく取り締まったが、これに対してイギリスは1840年に清に戦いをしかけた。

 

イギリスは圧倒的な海軍力で勝利し、清にとって不平等な南京条約を結び、多額の賠償金を手に入れ、香港を植民地として長く支配した。

 

1856年:アロー戦争

広州でイギリス船アロー号の清国人船員が逮捕されたことをきっかけにおこった戦争。清は降伏して北京条約を結び、公使の北京駐留や開港場の増加を認めた。

 

1857年:インド大反乱

イギリスは、フランスとの競争に勝ち、東インド会社を通じてインドでの独占的地位を得た。1857年にには、東インド会社に雇われていたインド人兵士の反乱をきっかけに全土に反乱が広がった。イギリスはこれを武力で平定し、その後インドを植民地としてアジア支配の拠点とした。

 

1902年(明治35年):日英同盟

日本は、いずれロシアとの衝突は避けられないとの判断から日英同盟を結んだ。日英同盟によって日本は軍艦建造についての情報を手に入れ、ロシアよりも先に軍艦を買って海戦にのぞむ事ができた。また、ロシアのバルチック艦隊は遠征航海中、イギリスの圧力で寄港先が限られ、燃料の補給が十分に行えず、士気や戦力が削がれた。

 

(フランス)

フランスでは国王が強大な権力を握る絶対王政が続いていたが、戦争による重税、貴族の特権や浪費、不自由な身分制度などに対する国民の不満が爆発し、1789年にフランス革命がおこった。国民議会は、自由・平等・私有財産の尊重などを掲げた人権宣言を発表し、革命政府は国王を処刑した。

 

革命の影響を恐れた諸外国はフランスを攻め、これに対し革命政府は国内の反政府派を厳しくおさえて諸外国と戦った。フランス軍人のナポレオンは戦いに勝利して民衆の支持を集め、フランスの皇帝となり、ヨーロッパの大半を征服した。

 

(ドイツ)

19世紀中頃のドイツは、多くの国々が分立していた。その中の一国プロイセンの首相ビスマルクは、富国強兵を進め、オーストリアやフランスとの戦争に勝利し、ドイツを統一した(1871年)

 

(イタリア)

イタリアもドイツ同様、中小の国々が分立していたが、1861年にイタリア王国として統一された。

 

日清戦争後「眠れる獅子」と呼ばれて存在感を示していた清はもろさを露呈したため、利権を求めるヨーロッパの国々(ドイツ・イギリス・フランス)は競って清に勢力を広げようとした。

 

第一次世界大戦

1882年:三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)

ドイツはオーストリア、イタリアと三国同盟を結び、海軍力を増強して地中海方面に力を伸ばそうとした。

 

1907年:三国協商(イギリス・ロシア・フランス)

三国同盟に対し、イギリスはロシア、フランスと三国協商を結び、ドイツの動きを封じ込めようとした。

 

1914年:サラエボ事件

バルカン半島は、多くの民族が独立を目指して対立しており、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていた。欧米列強はそれぞれにこの地域に住む民族を支援することによって勢力を拡大しようとしていたため、緊張関係が高まっていた。

 

1914年、オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの一青年によって暗殺される事件がおこった。この事件によって、セルビアオーストリアの間で戦争がおこると、三国協商三国同盟に加わる各国も参戦し、ヨーロッパを主な戦場とする第一次世界大戦が始まった

 

大戦は、ドイツ潜水艦による攻撃で自国民に被害が及んだアメリカがドイツに宣戦したため、1918年に三国協商側の勝利で終わった。戦争で国力を使い果たしたヨーロッパ諸国の国際的地位は低下し、かわってアメリカの発言力が大きくなった。

 

1919年:パリ講和会議ベルサイユ条約

ドイツはこの条約ですべての植民地と自国領土の一部を失い、軍備を厳しく制限された上に、莫大な賠償金の支払いが命じられた。