manabilife

教育・仕事・生活

「学び直し中学世界史」アメリカ合衆国史

アメリカ大陸の発見(1492年)と独立(1776年)

スペインはコロンブスを派遣して大西洋を西に向かわせた。コロンブスの航海はインドや「黄金の国ジパング」と呼ばれた日本への到達が目的だったが、当時ヨーロッパの人々は、アジア大陸の半分をインドと呼び、コロンブスアメリカ大陸をインドの一部だと信じていた。

 

1775年:アメリカ独立戦争

アメリカのイギリス植民地で、イギリスから移住した人々が、イギリス本国からの税金に反発し、独立戦争を起こした。1776年、植民地側は戦争のさなかに独立宣言を発表し、勝利の後、三権分立をかかげた合衆国憲法を制定した(1787年)。移住者たちはアメリカ合衆国の住民となり、アメリカは国民投票で選ばれた大統領を元首とする共和制国家となった。初代大統領には、アメリカ独立戦争の軍最高司令官だったジョージ・ワシントンが就任した。

 

1861年:南北戦争

独立後のアメリカにはヨーロッパから多くの移民が入り、農業と工業が発展した。アメリカ合衆国は建国以来、アメリカ先住民(インディアン)と戦いながらその領土を、北アメリカ大陸の西部に広げ、19世紀の中ごろに太平洋側まで達した。19世紀中頃に奴隷制自由貿易をめぐって北部と南部の州で対立がはげしくなり、1861年に南北戦争が起こった。北部側が支援するリンカーン大統領は奴隷開放を宣言し、この内戦に勝利。その後アメリカは西武の開拓を進め、1869年には大西洋岸と太平洋岸を結ぶ大陸横断鉄道を建設し、大国へと発展した。

 

 

②幕末の日本への接近

1837年:モリソン号事件

鯨油をとるために北太平洋でさかんに捕鯨活動を行っていたアメリカは、水や燃料の補給を求めて頻繁に日本に近づくようになった。幕府は、海岸の警備を固め、1825年に異国船打払令を出し、鎖国の方針を守ろうとしていた。そのため、日本人の放流民を救出し、日本に送り届けようとしていたアメリカ船モリソン号も砲撃された。

 

1854年:日米和親条約

1853年に、浦賀(神奈川県)に大統領国書を携えたペリーが率いる4隻の艦隊(黒船)が来航した。翌年再び来航したペリーは幕府と日米和親条約を結び、下田、函館、を開港し、アメリカ船に食料や燃料を提供すること、下田にアメリカの総領事館を置く事を同意させた。

 

1856年に着任したアメリ総領事館ハリスは、幕府役人に海外の情勢を説明し通商条約の必要性を強調。1858年に日米修好通商条約を結んだ。この条約は日本には関税自主権がなく、領事裁判権を認める不平等条約だった。

 

第一次世界大戦

ドイツ潜水艦による攻撃により自国民に被害が及んだアメリカはドイツに宣戦。1918年に大戦は三国協商(イギリス・ロシア・フランス)側の勝利で終わった。戦争で戦力を使い果たしたヨーロッパ諸国の国際的な地位は低下し、代わってアメリカの発言力が大きくなった。

 

第一次世界大戦後のパリ講和会議で、アメリカ大統領のウィルソンは、国際平和を守るために国際連盟をつくる事を提案。1920年に国際連盟が発足したが、アメリカは議会の承認を得られず、参加しなかった。

 

1921年:ワシントン会議

ワシントン会議では、主力艦隊の割合を5(米):5(英):日(3)と定め、日英同盟を解消。新たに日米英仏による四カ国条約が結ばれた。

 

 

1933年:ニューディール政策

1929年、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、アメリカで急激な景気後退が始まり、銀行や工場が倒産。街に失業者が溢れた。アメリカは国内産業を保護するために、輸入品に高率の関税をかけたため、各国はアメリカに輸出する事が困難になり、深刻な不況へと突入していった世界恐慌フランクリン・ルーズベルト大統領ニューディール政策を実施し、大規模な公共事業をおこして国民に仕事と賃金を与え恐慌を乗り切ろうとした。

 

日中戦争時の日米関係

日中戦争が始まってから3ヶ月後の1937年10月、ルーズベルト大統領は議会の演説で、無法な国を世界から隔離すべきと日本を非難。1939年に日米通商航海条約の廃棄を日本に通告し、輸出制限を強化。日本が南部仏印進駐を開始すると、アメリカは国内にある日本の資産を差し押さえると共に、石油の対日輸出全面禁止に踏み切り、イギリス・中国・オランダとともに日本の経済を圧迫し、封じ込めを強化した(ABCD包囲網

 

⑤太平洋戦争

1941年:ハル・ノートの提示

アメリカは、中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の破棄などを要求する強行案(ハル・ノート)を提示。東条英機内閣はアメリカとの交渉を断念し、1941年12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾の米軍基地を攻撃した。これにより、この一連の戦いは枢軸国(日独伊)と、連合国(米英蘭中)の全面戦争となった。

 

アメリカの外交官H・A・キッシンジャーの著書「外交」によると、ルーズベルトは日本がハル・ノートを受諾する可能性がないことを知っており、日本軍による真珠湾攻撃は、建国以来初めて領土を攻撃されたアメリカ国民を戦争に誘うこのうえない材料になった事が記されている。

 

1943年:ヤルタ会談ポツダム会談

ドイツ降伏前の2月、アメリカのルーズベルトソ連スターリンら米英ソの首脳はソ連黒海沿岸のヤルタで、戦後処理を話し合うヤルタ会談を行った。さらに、7月、米英ソの首脳はベルリン郊外でボツダム会議を開き、日本の降伏条件を示したポツダム宣言を米英中の名で発表した。

 

1945年:原子爆弾投下

8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下。8月15日に玉音放送が全国に流れ、戦争は集結した。

 

⑥米ソ冷戦

1949年にアメリカと西ヨーロッパ諸国による軍事同盟である北大西洋条約機構NATOを結成。これに対しソ連は東ヨーロッパ諸国との軍事同盟、ワルシャワ条約機構を結成した。

 

〈中国〉

アメリカに支援された蒋介石が率いる国民党と、毛沢東の率いる共産党が再び内戦を始める。共産党軍が勝利し、1949年、毛沢東を主席とする中華人民共和国が建国され、蒋介石は台湾に逃れた。

 

〈朝鮮〉

朝鮮半島は北緯38度線を境に北はソ連、南はアメリカに占領され、やがて南に大韓民国(韓国)、北に北朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立した。1950年、ソ連の支援を受けた北朝鮮は朝鮮統一をはかって韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まった。アメリカ軍を中心とする国連軍は韓国を支援して反撃。これに対し中国が義勇軍を送って北朝鮮を支援するなど戦いは長期化し、1953年にようやく休戦となった。

 

〈ドイツ〉

東西に分断されたドイツでは、1961年に東西を隔てるベルリンの壁が築かれた。

 

キューバ

中南米キューバで革命がおこり、社会主義政権が成立すると、1962年にソ連キューバにミサイル基地を建設。これに対し、アメリカは基地の撤去を求めてキューバ海上封鎖。米ソの核戦争の危機が迫ったが、アメリカの抗議でソ連がミサイルを撤去したことにより回避された。

 

ベトナム

フランスの植民地だったベトナムでは、独立戦争を戦った共産主義国家の北ベトナムと、アメリカの援助によって成立した南ベトナムが対立北ベトナムの支援を受けた南ベトナム開放民族戦線は、南ベトナム政府に対するゲリラ戦を展開し、共産勢力の拡大を恐れたアメリカは、1965、軍を送って北ベトナムと解放戦線を攻撃した。しかし、ソ連や中国の援助を受けた北ベトナム軍に苦戦して戦争は長期化。世界各地で反戦運動も高まり、1973年に米軍は撤退。その2年後には北ベトナム軍が南進して南ベトナムを併合した

 

アフガニスタン

1979年、ソ連アフガニスタン侵攻は東西陣営間の緊張をふたたび高め、西側諸国は軍備を増強してソ連と軍備拡張競争を繰り広げた。

 

1989年12月:マルタ会談

アメリカのブッシュ大統領ソ連ゴルバチョフ共産党書記長は地中海のマルタで会談し、冷戦の終結を宣言した。

 

⑦冷戦後

1991年:湾岸戦争

イラククウェート侵攻に対し国連決議に基づいてアメリカなどの多国籍軍が作られ、イラク軍を敗退させた。

 

2011年9月11日:アメリ同時多発テロ

ニューヨークなどがテロリストの攻撃を受け、アメリカはそれをかくまっていたアフガニスタンタリバン政権を攻撃し、ついでイラクフセイン政権を倒した。