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教育・仕事・生活

「学び直し中学世界史」ロシア史

①日本への接近

1792年:ラクスマン来航

1804年:レザノフ来航

シベリアを征服していたロシアは、そこから南に勢力を伸ばそうとしていた。1792年にロシア使節ラクスマン根室に来航し、日本人漂流民を届けると共に、幕府に通商を求めた。1804年にロシア使節レザノフが長崎に来航。再び幕府に通商を求めたが、応じなかったため、樺太択捉島に攻撃を加えた。

 

②ロシアのシベリア進出

ロシアでは皇帝が絶大な権力を持つ政治が続いていたが、国土のほとんどが内陸に位置しているため、大洋への出口、とりわけ冬でも氷に閉ざされない不凍港を確保することは重要な課題だった。ロシアはすでに東シベリアに進出し、アラスカ(財政難のため1867年にアメリカに売却)を手に入れていたがアロー戦争の和平を仲介した報酬として、1860年に清から沿海州を手に入れ、日本海への出口であるウラジオストクを拠点に、その力を太平洋にも伸ばし始めた

 

1854年:日露和親条約

千島列島について、択捉島以南は日本領、それより北はロシア領とされたが、樺太については境界が定められなかった。そのため樺太は両国人が雑居する地域になっていたが、日本はイギリスの忠告に従って、1875年(明治8年)、ロシアと樺太・千島交換条約を結び、千島列島は日本領、樺太はロシア領となった。

 

③1904年:日露戦争

ロシアの東アジアでの軍備増強に危機感を持った日本は戦争を決意。乃木希典率いる軍は、旅順のロシアが築いた要塞を攻略して占領。海上では東郷平八郎バルチック艦隊対馬沖でむかえ打ち全滅させた。1905年にポーツマス条約が結ばれ、日本は北洋での漁業権や樺太の南半分を得た

 

ソビエトの出現

日露戦争に破れ、満州・朝鮮方面への南下をあきあめたロシアは再びヨーロッパ方面に関心を向けるようになった。ロシアはイギリス・フランスと三国協商を結び、第一次世界大戦に参戦した。

 

一方、ロシアでは相次ぐ敗戦による生活物資の不足に民衆の不満が爆発。1917年、首都ペトログラードレーニン率いるソビエト政権が成立した(ロシア革命。ロシアの革命政府はドイツと講和を結び戦争を中止。革命に反対する国内勢力との内戦に入った。退位したロシア皇帝やその家族は処刑され、資本家や地主、知識人は捕えられ、多数の人々が殺害されたり、シベリアに追放された。

 

ロシア革命では帝政が倒れ、労働者と兵士の代表会議を基盤として、レーニン率いるロシア共産党中心の政権が成立した。この代表会議をソビエトという。1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立した

 

ソビエト世界初の共産主義社会の実現を目指す政府で、貧富の差を生む自由な生産活動を禁止し、土地や農場、銀行、鉱山、鉄道などほとんどすべての企業を国有化し国家が管理した。議会政治を否定し、共産党にすべての権力が集中する1党独裁政治が行われ、市民の自由はうばわれた。

 

ロシア革命の影響を警戒した欧米諸国は、シベリアに兵を送り、革命政府に圧力を加えた。日本もあ1918年(大正7年)アメリカなどとともにシベリアに出兵したが、成果がないまま撤退した。

 

1919年、世界に共産主義を広めるためコミンテルンとよばれる革命組織が作られ、各国の共産党コミンテルン支部として結成され、それぞれの国を共産化する活動を始めた。

 

レーニンの死後、権力を握ったスターリンは、農業の集団化を推し進めるとともに、工業国への転換を目指した。その間、スターリンは秘密警察による情報網をはりめぐらせ、共産党に反対する人々を摘発して収容所に送り、多くの犠牲者を出した。

 

世界恐慌下のソ連

資本主義国が恐慌に苦しむ中、スターリン率いるソ連は、共産主義の予言通りの大恐慌が資本主義社会で起こったことに自信を深め、計画経済を推し進めた。もともとの経済水準が低かったこともあり、一定の成果が上がった。

 

第二次世界大戦

日独伊三国同盟を結んだ日本は、さらに米英に圧力をかけるためにソ連を含めた4ヵ国条約を結ぼうとして、日ソ中立条約を結んだ。しかし、ドイツが日本に事前の協議もなく、不可侵条約を破ってソ連に攻め込んだ

 

その後ドイツはスターリングラードソ連軍に破れ、その後も敗戦を続け1945年5月に無条件降伏した。

 

1945年2月のヤルタ会談で、米英ソの首脳は戦後処理を話し合い、ソ連による対日参戦や、日本領だった樺太南部と千島列島の獲得が密かに合意された

 

日本政府は、ソ連の対日参戦の方針を察知できず、和平交渉の仲介を求めてソ連と交渉していた。ソ連は8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満州や朝鮮、南樺太、千島列島に侵攻した。ソ連軍は終戦後に択捉島以南に侵攻し、ソ連がロシアになった今日にいたるまで不法占拠している。

 

終戦後、ソ連満州樺太、朝鮮などで武装解除した日本軍人など約57万〜70万人をシベリアなどに連行し、長時間苛酷な労働に従事させたため、6万人以上の人々が死亡した(シベリア抑留)。

 

ソ連の崩壊

ソ連社会主義社会経済は行き詰まっていき、ゴルバチョフ政権はこれを立て直そうと経済の市場化や情報公開などの改革を断行。しかし、国内では自由化を求める声が高まって体制の混乱を招き、他の東側諸国も自由化やソ連の影響下からの離脱を求める動きが高まった。

 

1989年ベルリンの壁が崩され、ブッシュ・ゴルバチョフのマルタ会談で冷戦の終結を宣言。

 

この前後、ヨーロッパでは共産主義政権が次々と倒れ(ポーランドハンガリーチェコスロバキアルーマニアブルガリア)、ソ連共産党独裁体制が崩壊し、1991年、ロシアやウクライナなどに分裂して消滅した。