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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」11世紀

①ヨーロッパ

封建社会の成立〉

度重なる外部勢力の侵入から生命財産を守るために、主君が家臣ni封土を与えて保護するかわりに、家臣は主君に中世を誓って軍事的奉仕の義務を負う封建的主従関係が生まれた。封建的主従関係を結ぶ有力者たちは、それぞれが大小の領地を所有し、農民を支配する領主だった。領主の個々の所有地を荘園といい、荘園を経済的基盤として、その上に封建的主従関係による階層組織を持つ社会を封建社会という。封建社会は10〜11世紀に成立し、西ヨーロッパの中世世界の基本的な骨組みとなった。

 

カノッサの屈辱

封建社会では、王権が貧弱で統一的権力になれなかったのに対し、ローマ=カトリック教会は西ヨーロッパ世界全体に普遍的な権威を及ぼした。教皇を頂点とし、大司教・司教・司祭・修道院長など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の階層制組織がつくられ、大司教修道院長などは国王や貴族から寄進された荘園を持つ大領主でもあった

 

高位の聖職者が諸侯と並ぶ支配階級となると、皇帝や国王などの世俗権力は、しばしば本来聖職者ではない人物をその地位に任命し、教会に介入するようになった。世俗権力の影響をうけた教会では、聖職売買などさまざまな弊害が生じた。

 

教皇グレゴリウス7世聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、また聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとした神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世はこれに反発し、教皇と皇帝とのあいだで叙任権闘争が始まった。皇帝は改革を無視しようとしたため、教皇は彼を破門。ドイツ諸侯は破門解除がなければ皇帝を廃位すると決議したため、1077年皇帝はイタリアのカノッサ教皇に謝罪し許された

 

〈第一回十字軍〉

11世紀に東地中海沿岸に進出し、聖地イェルサレム支配下においたセルジューク朝は、ビザンツ帝国をおびやかしたので、ビザンツ帝国教皇に援助を要請した。教皇ウルバヌス2世1095年クレルモン宗教会議を結集し、聖地回復の聖戦をおこすことを提唱した。翌1096年、各国の諸侯や騎士からなる第1回十字軍が出発し、1099年イェルサレムを占領してイェルサレム王国をたてた

 

②西・中央アジア

セルジューク朝の拡大〉

中央アジアから西方に進出したトルコ人セルジューク朝マムルーク(騎馬戦士として優れているトルコ人奴隷)を採用し、強力な軍隊組織を整えた。建国者トゥグリル=ベクは1055年にブワイフ朝を追ってバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。

 

スンナ派を奉ずるセルジューク朝は、シーア派ファーティマ朝に対抗してバグダートやイスファハーンなど、領内の主要都市に学院マドラサを建設し、スンナ派の神学と法学を奨励して学問の育成につとめた。セルジューク朝アナトリアやシリアの海岸地帯にも進出してビザンツ領を圧迫したので、ヨーロッパのキリスト教国が十字軍をおこす原因となった。

 

〈カラハン朝とガズナ朝

同じトルコ人カラハン朝は、東・西トルキスタンをあわせてこの地方にイスラーム文化を導入。アフガニスタンガズナ朝は、10世紀末から富の獲得を目的に北インドへの侵入を開始した。

 

③東南アジア

イラワディ川下流域では、9世紀までビルマミャンマー)系のビュー人の国があったが、11世紀にはバカン朝がおこり、スリランカとの交流により上座部仏教が広まった。

 

ベトナムでは、前漢時代以来、紅河デルタを中心にした北部地域が中国に服属していたが、独立への動きも強く、10世紀末には北宋に独立を認めさせ、11世紀初めには李氏大越(ダイベト)国をたて、李朝を成立させ。

 

④中国

※宗(北宋)(960〜1127)

王安石の新法〉

北宋では、契丹西夏など北方民族の圧迫をうけ、また集権的な軍制をとっていたため、防衛費の増大による国家財政の窮乏がつねに大きな問題であり、その対策が国内の政治の焦点になっていた。

 

11世紀後半の神宗は、王安石を宰相に起用して政治の根本的改革をはかった。彼の改革は、農民や中小商工業者の生活安定と生産増加をはかりながら、同時に経費節約と歳入増加による国家財政の確立と軍事力の強化を目指す富国強兵策であった。しかし、地主や大商人の利益をおさえて政府の収入の増加をめざすこの急激な改革に対しては、反発する官僚たちも多く、王安石の引退後、新法党と旧法党との対立が長く続いて、さらに宗の国力を弱めることになった。

 

⑤日本(平安時代

藤原道長太政大臣となる(1017)

・藤原頼道、平等院鳳凰堂を建立(1053)

白河上皇院政を始める(1086)