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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」17世紀〜17世紀の危機と再編〜

①ヨーロッパ

〈ドイツ〉

三十年戦争(1618〜1648)

ウェストファリア条約(1648)

神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成が遅れていた。1618年、オーストリアの属領ベーメンボヘミア)の新教徒が、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に反抗したのをきっかけに三十年戦争がおこった。この戦争の一つの軸は旧教対新教で、スペインは旧教側ハプスブルク家の皇帝を支援し、新教国デンマークはこれと戦った。

 

傭兵隊長ヴァレンシュタインの率いる皇帝軍が優勢になると、バルト海の覇権を目指す新教国スウェーデンの国王グスタフ=アドルフが戦いに加わった。

 

旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかいはじめるなど、三十年戦争は宗教対立をこえたハプスブルク家対フランスの戦いでもあった。

 

三十年戦争は1648年のウェストファリア条約終結したが、講和条約が大半のヨーロッパ諸国が参加した国際会議でまとめられたことは、ヨーロッパの主権国家体制の確立を示すものだった

 

これにより、ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され、帝国における諸侯の分立状態は決定的となった。

 

〈イギリス〉

ピューリタン革命(1642)

 

1640年、国王は議会と対立するとすぐに議会を解散したが、財政上の必要から、同年秋に再び議会を招集した。この議会も国王を激しく批判し、42年には王党派と議会派のあいだに内戦がおこった。独立派のクロムウェルは、ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編成し、議会派を勝利に導いた。その後、彼は議会から長老派を追放し、1649年にはチャールズ1世を処刑し、共和政をうちたてた。

 

英蘭戦争(1652)

1651年に制定された航海法は、イギリスとその植民地への輸入品をイギリスか原産国の船で輸送することを定めて、中継貿易で繁栄していたオランダに打撃を与えた。このため、両国間に英蘭戦争がおこった。戦いはイギリス優勢のうちに終わった。

 

名誉革命(1688)

権利の章典制定(1689)

クロムウェルは厳格な軍事的独裁体制をしいたが、国民の不満が高まり、彼の死後チャールズ1世の子が国王チャールズ2世として迎えられた。1670年末頃には、国王の権威を重んずるトーリ党と、議会の権利を主張するホイッグ党という今日の政党の起源となる2つの党派が誕生した。

 

ジェームズ2世カトリック絶対王政の復活につとめたので、1688年に両党派はオランダ総督のウィレム3世を招いた。ジェームズ2世は抗戦をあきらめて亡命。翌89年、ウィレム・メアリ夫妻は議会がまとめた権利の宣言を受け入れて、ウィリアム3世とメアリ2世としてともに王位についた。議会は1689年末、この宣言を権利の章典として制定した。これは、国民の生命・財産の保護などを定めたもので、ここに議会主権に基づく立憲王政が確立された

 

〈フランス〉

1661年、宰相マザランの死後、国王ルイ14世が親政を開始し、強大な権力をふるって「太陽王」と呼ばれた。彼はヴェルサイユに大規模な宮殿を建造し、宮廷には貴族や芸術家が集められた。

 

②南アジア

ムガル帝国(1526〜1858)

アウラングゼーブの治世〉

ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブの時代に最大の領土となった。イスラーム教に深く帰依したアウラングゼーブは、ヒンドゥー教寺院の破壊を命じ、人頭税(非イスラム教徒に課される税金)を復活するなどヒンドゥー教徒を圧迫して反発を招いた。こうした情勢のなかで、各地で農民反乱が生じ、また地方勢力が着実に力をつけて独立への動きを示した。西インドではヒンドゥー国家の建設を目指すマラーター王国が登場した。

 

③中国

※明(1368〜1644)

※清(1636〜1912)

〈明の滅亡〉

16世紀後半から17世紀前半には、北虜南倭につづいて、朝鮮半島や東北地方にも戦争が広がり、明は軍事費の増加のために財政難においちった。重税と飢饉のために各地で反乱がおこり、李自成の反乱軍に北京を占領されて滅亡した。

 

清朝の統治〉

李自成が明を滅ぼすと、長城の東端の山海関で清軍の侵入を防いでいた明の武将呉三桂は清軍に降伏し、清軍は長城内にはいって北京を占領した。第4代の康熙帝(こうきてい)は、厳しい海禁政策鄭氏の財源をたち、鄭氏を降伏させて台湾を領土とするとともに、三藩の乱を鎮圧して清朝統治の基礎を固めた。

 

④日本

〈江戸時代〉

徳川家康江戸幕府を開く(1603)

・オランダ人の来航を長崎に限定(鎖国の完成)(1641)