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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」19世紀前半〜ウィーン体制とアヘン戦争〜

①ヨーロッパ

ウィーン会議(1814)

・フランス、七月革命(1830)

・フランス、二月革命(1848)

クリミア戦争(1853)

ウィーン体制の成立〉

1814年から翌年にかけて、フランス革命とナポレオンによる一連の戦争の戦後処理のため、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの支配者が参加する国際会議がウィーンで開かれた

【決定事項】

・フランスやスペインでブルボン家が復活

ロシア皇帝ポーランド国王を兼ねる

プロイセンは東西に領土を拡大

・イギリスは旧オランダ領のスリランカ・ケープ植民地の領有を認められる

・オランダは旧オーストリアネーデルランド(ベルギー)をゆずられる

オーストリアは北イタリアを得る

・スイスは永世中立国となる

・ドイツにはオーストリアプロイセン以下の35の君主国とハンブルグなど4自由市で構成されるドイツ連邦があらたに組織された

 

ウィーン会議の結果、フランス革命とナポレオン体制下にヨーロッパ各地に広まった自由主義国民主義ナショナリズム)はおさえられ、ヨーロッパの政治的現状維持を目指す保守主義が優位になった。

 

七月革命によるウィーン体制の動揺〉

フランスでは国王シャルル10世が、きびしい制限選挙制をとる立憲君主制のもとで貴族・聖職者を重視する反動政治をおこなった。選挙で反政府派が圧勝すると、未招集のまま議会を解散した。これに抗議して1830年7月、パリに革命がおこり、シャルル10世は亡命し、自由主義者として知られたオルレアン家ルイ=フィリップが王に迎えられ、七月王政が成立した。

 

七月革命の影響は各地に広がった。

・ベルギーがオランダから独立

ポーランド、ドイツ、イタリアでも蜂起がおこったが鎮圧

・西欧諸国は反自由主義・反民族運動的な政治姿勢に協調しなくなる

 

二月革命によるウィーン体制の崩壊〉

七月王政下のフランスでは、銀行家など一部の富裕層に富が集中し、選挙権も多額納税者のみに与えられる極端な制限選挙による政治がおこなわれた。このため、中小資本家や民衆のあいだには選挙権拡大を求める動きが広まり、1848年2月、パリで革命がおこった。国王ルイ=フィリップは亡命し、共和政の臨時政府が樹立された。

 

二月革命はその後ドイツ・オーストリアにも波及。さらにベーメンハンガリー・イタリアでも民族運動が高揚し、これによってウィーン体制は崩壊した。ヨーロッパ各地で起こった一連の革命・民族運動を1848年革命と総称される。

 

クリミア戦争

ロシアは1848年革命ではオーストリアを支援してハンガリーの民族運動を制圧し、反革命の擁護者となって「ヨーロッパの憲兵と呼ばれた。ニコライ1世は、ロシアの立場が国際的に有利になったこの機会を利用して、南下政策を推進しようとした。そこで、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を理由に、1853年、オスマン帝国と開戦した。

 

イギリス・フランスはロシアの南下を阻止するため、オスマン帝国を支援したので、戦争はヨーロッパ列強同士の戦いとなった。クリミア半島セヴァストーポリ要塞をめぐる激しい攻防の末、ロシアは敗れ、56年パリ条約が結ばれた。ロシアは黒海の中立化と40年のロンドン条約の取決めを再確認させられた。

 

②中国

※清(1636〜1912)

 

三角貿易のはじまりとアヘン戦争

18世紀後半に広州の対外貿易の大半を占めていたイギリスでは、本国での茶の需要にともなって中国茶の輸入が急速に増加していた。しかし、産業革命で生産をのばした綿製品は中国ではなかなか売れず、輸入超過の結果、大量の銀が中国に流入していた。

 

これを打開するために、19世紀初めからは、中国の茶をイギリスに、イギリスの綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国に運ぶ三角貿易を始めた。中国では、アヘンの吸引が広がり、アヘンの密貿易が増え、従来とは逆に大量の銀が国外に流出するようになった。

 

1839年林則除は、広州でアヘンを没収廃棄処分したうえ、今後アヘン貿易をしないという誓約をイギリス商人にせまった。アヘン貿易ではイギリス国内でも批判が強かったが、イギリス政府は自由貿易の実現をとなえて海軍の派遣を決定。1840年アヘン戦争をおこした。

 

アヘン戦争で、清はすぐれた兵器をもつイギリス海軍に連敗し、1842年に南京条約を結び、香港島の割譲、上海など5港の開港、賠償金の支払いなどを認めた。翌年には、領事裁判権、協定関税制、最恵国待遇などを認める不平等条約を結んだ。1844年にはアメリカ合衆国、フランスと同様の条約を結んだ。

 

〈アロー戦争と北京条約〉

戦後の交易でも欧米諸国が期待したほどの利益はあがらず、不満をいだいたイギリスは条約改正の機会を伺っていた。1856年広州で、イギリス船籍を主張する船の中国人乗組員が海賊容疑で逮捕されるというアロー号事件がおこった。イギリスはこれを口実とし、フランスに呼びかけて共同出兵をおこない、アロー戦争をおこした。英仏軍は広州を占領し、海路北上して天津にせまり、1858年に南京条約を結んだ。しかし、翌年、批准書交換の使節の入京を清軍が武力で阻止したことをきっかけに英仏軍は再度出兵して北京を占領し、1860年北京条約を結んだ。

 

清は、外国公使の北京駐在、天津など11港の開港、外国人の中国内地での旅行の自由、キリスト教布教の自由などを認め、イギリスに九龍半島南部を割譲した。同じ頃、アヘン貿易も公認された。

 

③日本(江戸時代)

フェートン号事件(1808)

イギリスのフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を連れ去り港内で乱暴をはたらくという事件

異国船打払令(1825)

水野忠邦天保の改革(1841〜1843)

・ペリー来航(1853)

日米和親条約(1854)

日米修好通商条約(1858)