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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」戦後〜オイルショックまで(1945年〜1973年)

国際連合発足(1945)

1945年4月〜6月、連合国50ヵ国が参加したサンフランシスコ会で正式に採択され、同年10月に国際連合が発足した。本部はニューヨークに置かれ、英・米・仏・ソ・中の5大国が拒否権を持つ安全保障理事会を設置し、国際紛争解決のための経済的・軍事的制裁を決定する強力な権限を与えた。しかし、米ソ対立が表面化すると、両国による拒否権の発動により、安全保障理事会はしばしば機能不全に陥った。

 

中華人民共和国成立(1949)

戦後中国では国民党共産党との衝突が再燃。蒋介石が率いる国民党政権は、党幹部の腐敗、激しいインフレによる経済混乱で民衆の批判を浴びた。共産党はこの間、支配地域で土地改革を実行して農民の支持を得て1947年から反攻に出た。国民党軍は敗北を重ね1949年12月、蒋介石は台湾に逃れ中華民国政府を維持した。

 

共産党は1949年10月、毛沢東を主席、周恩来を首相とする中華人民共和国の成立を宣言し、首都を北京と定めた。1950年2月、モスクワで中ソ友好同盟相互援助条約が調印され、中国は社会主義圏に属する姿勢を明らかにした。アメリカ合衆国は台湾の中華民国政府を中国の正式代表とする立場をとり、その後長く中華人民共和国と対立した。

 

NATO発足(1949)

東欧諸国へのソ連の影響が強化されていったのに対抗して、西欧5ヵ国(英・仏・ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク))は1948年3月、西ヨーロッパ連合条約を結び、翌年にはアメリカ合衆国を含めた西側12ヵ国が北大西洋条約機構NATOを結成し、武力侵略に協同で防衛することになった。

 

朝鮮戦争(1950〜1953)

南北に分断されていた朝鮮で、1950年6月、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮軍が南北統一をめざして境界線である北緯38度線をこえて侵攻。国連安全保障理事会北朝鮮軍の行動を侵略と認め、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国の支援に向かった。

 

国連軍が北朝鮮軍に反撃し、中国国境近くまで追撃すると、中国は北朝鮮側を支援して人民義勇軍を派遣した。朝鮮半島ではその後、38度線を挟んで攻防が続いたが、1953年に休戦協定が成立し、現在も続く南北の分断が固定化されていった。

 

ワルシャワ条約機構(1955)

ソ連と東欧6ヵ国(アルバニアブルガリアチェコスロバキアハンガリーポーランドルーマニア)は1949年1月、経済相互援助会議コメコン(COMECON))を創設し、1955年5月には協同防衛を定めた東ヨーロッパ相互援助条約(ワルシャワ条約機構を発足させた。

 

キューバ危機(1962)

キューバでは、親米的なバティスタによる独裁政権が続いていたが、1959年、カストロが指導する革命運動が成功した。キューバ社会主義宣言を発表してソ連よりの姿勢を示した。

 

1962年、キューバソ連の支援によるミサイル基地の建設が発覚すると、合衆国のケネディ政権はソ連船の機材搬入を海上封鎖で阻止した。そのため米ソ間で緊張が高まるキューバ危機が発生したが、合衆国のキューバ内政への不干渉と交換に、ソ連がミサイル基地を撤去する合意が成立した。これ以降、米ソ両国は緊張緩和の方向に向かっていった。

 

ベトナム戦争(1965〜1975)

南ベトナムでは、ゴ=ディン=ジエム政権が独裁色を強めるなかで、1960年に南ベトナムの解放をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国北ベトナムと連携して、ゲリラ戦を展開した。

・1963年:ケネディ政権が本格的な軍事援助開始

・1965年:ジョンソン政権が北ベトナムへの爆撃(北爆)にふみきる

ソ連、中国の援助を受けた北ベトナムと解放戦線はもちこたえ、戦局は泥沼化

・1968年:北爆停止。ベトナムとの和平交渉開始

・1973年:ベトナム和平協定が成立

・1975年:北ベトナム軍と解放戦線がサイゴン(現ホーチミン)を占領

・1976年:南北を統一し、ベトナム社会主義共和国が成立

 

中東戦争

第一次中東戦争(1948年)

1945年にアラブ7ヵ国(エジプト・シリア・イラクレバノン・トランスヨルダン・イエメン・サウジアラビア)は、アラブ連盟を結成し、アラブの統一行動を目指した。

 

パレスチナは戦後、イギリスの委任統治の終了に向けて国際連合によってアラブ人地域とユダヤ人地域の分割案を提示された。ユダヤ人はこれを受け入れて1948年イスラエルの建国を宣言したが、アラブ連盟は反対してイスラエルと戦争になった。

 

国際連合の調停によってイスラエルは独立を確保したが、パレスチナから追放された100万人以上のアラブ人は難民となった。

 

第二次中東戦争(1956年)

エジプトでは、1952年に王政を倒してナセルが大統領になったが、イギリス・アメリカ合衆国はナセルの外交姿勢に反発。エジプトへの経済援助を停止したため、ナセルは1956年にスエズ運河の国有化を宣言。これに対し、イギリス・フランス・イスラエルはエジプトに軍事行動をおこした。

 

しかし、この行動は国際世論の批判をまねき、3国は撤退した。これ以降、エジプトはアラブ民族主義の指導的地位についた。

 

第三次中東戦争(1967年)

パレスチナ難民は1964年にパレスチナ解放機構PLOを設置してイスラエルに対する抵抗闘争を強化した。1967年にエジプト・シリアなどとイスラエルの間に戦争がおこり、イスラエルが占領地を拡大する一方で多数の難民が生まれた。この敗北によって、アラブ民族主義は衰退に向かった

 

第四次中東戦争(1973年)

1973年、ナセルの後を継いだエジプトのサダト大統領はシリアとともにイスラエルに反撃し、まもなく停戦になった。その後、サダトは戦争による決着を断念して、イスラエルとの和平に転じ、1979年エジプト=イスラエル平和条約が締結された。

 

オイルショック

1973年、第四次中東戦争がおこると、サウジアラビアなどアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエルを支援する諸国に対して原油輸出の停止や制限の処置をとった。同時に石油輸出国機構OPEC)原油価格大幅引き上げを決定したため、安価な石油を前提に経済成長を続けてきた先進工業国は深刻な打撃を受けた。

 

⑩日本の動き

日本国憲法公布(1946年)

サンフランシスコ平和条約(1951年)

日米安全保障条約(1951年)

・日ソ共同宣言(1956年)

国際連合加盟(1956年)

日韓基本条約(1965年)

・沖縄復帰(1972年)

沖縄米軍基地がベトナム戦争に利用されていたことへの批判が高まり、沖縄返還問題が浮上。1972年に沖縄返還が実現した。

・日中平和友好条約(1978年)