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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」中華民国の成立

●列強による中国分割

日清戦争(1894年〜1895年)での清の敗北をきっかけに、日本・ロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどの列強は清朝領土内での鉄道敷設・鉱山採掘などの利権獲得競争に乗り出した。

 

義和団事件(1901年)

山東の農村の自警団組織を基盤にうまれてきた宗教的武術集団の義和団「扶清滅洋」をとなえて鉄道やキリスト教教会を破壊。清朝の保守排外派は、この運動を利用して列強に対抗しようとして各国に宣戦布告した。

 

日本とロシアを主力とする8カ国の連合軍(イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストラリア・イタリア)は在留外国人の保護を名目に協同出兵にふみきり、北京を占領。清は1901年に北京議定書に調印し、巨額の賠償金の支払いと、外国軍隊の北京駐屯を認めた。

 

辛亥革命による共和国誕生

孫文の中国同盟会)

海外では、漢人による清朝の打倒を目指す革命が盛んになっていた。興中会を指導する孫文は、バラバラだった革命諸団体の結集をはかり、1905年に東京で中国同盟会を組織。中国同盟会は、満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする「民族(異民族支配の打倒)・民権(共和国家の樹立)・民生(土地の均分化)」三民主義を掲げて、武装蜂起を行った。

 

辛亥革命

1911年10月に武昌の軍隊のなかにいた革命派が蜂起し、辛亥革命が始まった。蜂起はたちまち各州に広がり、1ヶ月のうちに大半の省が独立を表明。革命軍は帰国した孫文を臨時大統領に選出し、1912年1月、南京で中華民国の建国を宣言し、アジア初の共和国が誕生した。

 

宣統帝の退位)

清側は、北洋軍をにぎる袁世凱を革命軍との交渉にあたらせたが、清朝を見限った袁は、清帝の退位と共和政の維持を条件に、孫文から臨時大統領の地位を譲り受け、北京で就任した。1912年2月の宣統帝(溥儀)の退位により、中国の皇帝政治は終わりを告げた。

 

袁世凱孫文の対立

その後、共和政は安定せず、議会の力をおさえようとする袁世凱とこれに対抗する孫文らの国民党が激しく対立。孫文らの武装蜂起(第二革命)を鎮圧して正式な大統領の座についた袁は独裁をすすめ、自ら帝位につこうとした。

 

しかし、国民党系の地方軍人がおこした第三革命や諸外国の不支持により、帝政復活は失敗し、袁はその後病死した。袁の死後は、列強の支援を受けた軍閥が各地に分立して互いに抗争し、北京政府の実権を争奪する不安定な状況が数十年にわたって続いた。