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「教科書で学ぶ世界史」右翼左翼とフランス革命

●左翼・右翼って何?

goo辞書より

左翼

フランス革命当時、議会で議長席から見て左方に急進派のジャコバン派がいたことから、社会主義共産主義無政府主義などの革新的な思想。またそのような人・団体。

 

右翼

フランス革命当時、議会で議長席から見て右方に穏和派のジロンド派が席を占めていたことから、保守的または国粋的な思想、立場の一派。また、その者。

 

フランス革命期の議会

①三部会招集(1789年5月)

イギリスとの戦争をくりかえしたフランス国家の財政が行き詰まり、国王ルイ16世は、デュルゴー・ネッケルらの改革派を起用して、特権階級に対する課税などの財政改革をこころみた。しかし、特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれていなかった三部会を招集。

(第一身分:聖職者291人)

(第二身分:貴族285人)

(第三身分:平民578人)

議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立

 

②国民議会成立(1789年6月)

三身分の議員が、自分たちが真に国民を代表する議会であると宣言し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場(テニスコート)の誓い)。特権身分からも同調者があらわれると、国王も譲歩してこの動きを認めた。

 

1789年7月:バスティーユ牢獄襲撃

まもなく、国王と保守的な貴族は武力で国民議会を弾圧しようとした。これに反発して民衆は圧政の象徴とされたパリのバスティーユ牢獄を攻撃した。

 

1789年8月:封建的特権の廃止宣言

1789年8月:人権宣言採択(ラ=ファイエットらが起草)

1789年10月:ヴェルサイユ行進(王家をパリに移転させる)

1791年3月:ギルド廃止

1791年6月:ヴァレンヌ逃亡事件

ルイ16世王妃マリ=アントワネットの実家のオーストリアに逃亡をこころみたが失敗。

1791年9月:1791年憲法制定

 

③立法議会成立(1791年10月)

フイヤン派(ラ=ファエットなど)(右派)264人)

(中間派345人)

ジロンド派中心(左派)136人)

革命のこれ以上の進展を望まないフイヤン派立憲君主派)と大商人の利害を代表して共和制を主張するジロンド派が対立。1792年3月にジロンド派が政権を握った。

1792年8月:テュイルリー宮殿襲撃→王権停止

 

国民公会召集(1972年9月)

男性普通選挙法により議員選出。共和制の樹立が宣言された第一共和政

ジロンド派(右派)137〜178人)

ジャコバン派山岳派)(左派)258人〜302人)

国民公会ではジャコバン派が力を増し、1793年1月にルイ16世は処刑された。

 

1793年2月:第一回対仏大同盟(英首相ピットの提唱)

フランス革命がイギリス国内に波及することを警戒

 

1793年6月:ジャコバン派によるジロンド派の追放(処刑)

ジャコバン派ロベスピエールを中心とした恐怖政治が始まる。

 

1794年7月:テルミドール9日のクーデタ

独裁への不満が次第に高まり、ロベスピエールはパリ民衆の支持も失って孤立。テルミドール9日のクーデターで処刑された。

 

⑤総裁政府成立(1795年10月)

ジャコバン派の没落の後、穏健共和派が有力となり、1795年に5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第二回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。

 

⑥統領政府成立(1799年11月)

1796年、イタリア派遣軍司令官としてナポレオン・ボナパルトオーストリア軍を破り、1798年にはイギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。帰国したナポレオンは1799年11月、国民の支持を失っていた総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権を握った(ブリューメル18日のクーデタ)