「人物で学ぶ世界史」マリア=テレジア
●マリア=テレジア概略
オーストリアのハプスブルク家は男子の継承者がいなかったため、父カール6世からハプスブルク家の全領土を継承(在位1740〜1780)。1765〜1780は長男のヨーゼフ2世と共同統治。一時はプロイセンのフリードリヒ2世との婚姻の話もあったそう。女王であり、戦争が相次ぐ中、20年間で16人の子どもを産んだ。
●オーストリア継承戦争と七年戦争
→オーストリア継承戦争(1740〜1748)
バイエルン選帝候(妻がハプスブルク家出身(マリア=テレジアのいとこ))が、自らの継承権を主張し、プロイセン(フリードリヒ2世)、フランス(ルイ15世)、スペイン(フェリペ5世)が支援し、オーストリア継承戦争が始まる。
⇒フランスと敵対するイギリスがオーストリアを支援
→アーヘン和約(1748)
・マリア=テレジアの領土継承を承認
・プロイセンがシュレジエン(石炭と鉄の産地)を獲得
⇒シュレジエン奪回を目指してフランス・ロシアと同盟(外交革命)
・エリザヴェーダ女帝(ロシア)と同盟
・ルイ15世の愛人、ポンパドゥール夫人と接触しフランスと同盟
・このとき、マリア=テレジアの娘マリー・アントワネットは、後のルイ16世(フランス)に嫁いだ。
→警戒したフリードリヒ2世が宣戦(七年戦争)
・フランスと敵対するイギリスはプロイセン側につく
・最初オーストリア側が優勢だったが、ロシアのエリザヴェーダ女帝が急死し、後を継いだピョートル3世はフリードリヒ2世よりだったため、ロシアが戦線から離脱。フランスとイギリスのフレンチ=インディアン戦争もイギリスが優位な状況になったこともあり、講和条約を結んだ。
→フベルトゥスブルク和約(1763)
・プロイセンのシュレジエン領有を再確認