中学2年生の教科書に掲載されている太宰治の「走れメロス」。生徒は「友情が持つ力」や「人間の強さと弱さの二面性」「素直に弱さをさらけ出す事が人の心を動かすこと」など、多様な主題を掴み取ります。中にはディオニソス王と太宰治の心情を重ね合わせて考察する生徒も。より深く作品を読み解くためにも、太宰治の生い立ちに興味が向かう生徒が多くいました。そこで、太宰治の生い立ちを簡単に整理します。
【少年時代】
・1909年(明治42年)、青森県北津軽郡金木村(現、五所川原市)に生まれる。
・本名:津島修治
・津島家は金融業などで財を成した大地主。
・父は貴族院議員にもなった人物。
・母は病弱だったため乳母や叔母に養育されれる。
・小中学校での学業成績は極めて優秀
【高校・大学時代】
・芥川の自殺に衝撃を受けて学業を放棄。
・当時非合法だった左翼運動に関わり、零細農民からの搾取によって成り上がった津島家の出自に負い目を感じ自殺未遂。
・高校卒業後東京帝国大学に入学。
・高校時代から交際していた小山初代を東京に呼び寄せ、生家に結婚の承認を迫るも、分家除籍が条件に。
・バーで出会った女性と心中を図り、女性だけが亡くなるという事件を引き起こす。
・左翼運動から離れ、死を意識した遺書として小説を書き始める。
【大学除籍後】
・1935年(昭和10年)、大学を卒業できないことが決定。
・都新聞社の入社試験を受けるも不合格となり自殺を図る。
・急性盲腸炎で入院。鎮静のために利用していたパビナール(麻薬制鎮痛剤)中毒に陥る。
・内縁の妻になっていた小山初代が太宰の知人と過ちを犯していたことがわかり、初代とともに心中を図るが未遂に終わり、初代とは離別。
・創作活動は続け、「魚服記」「思ひ出」「道化の華」「雀こ」「猿ケ島」などの短編小説をまとめて、1936年(昭和2年)に第一創作集「晩年」を出版
【初代との離別後】
・1938年(昭和13年)、師と仰いでいた井伏鱒二の勧めもあり、山梨県御坂峠に滞在しながら小説を執筆。
・御坂峠に滞在中、石原美智子と見合いをして結婚。
・これを機に心身の健康を取り戻し、旺盛な創作活動を開始。
・「満願」「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」など人間の善意に目を向けた明るく希望に満ちた作品を発表。
・1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発後、自由な発言が許されなくなった時代にあっても「正義と微笑」「右大臣実朝」「津軽」などの作品を発表。
【戦後】
・戦争終結とともにジャーナリズムや文壇が戦争批判に主張を変える様子に失望。
・「新型便乗」「民主主義踊り」といった言葉でこの風潮を批判。
・「反俗・反権威」という立場をとり、「トカトントン」「ヴィヨンの妻」のように退廃的な作品に再び変化。
・1947年(昭和22年)「斜陽」を発表。戦後の急激な変化によって没落した上流階級を指す「斜陽族」という言葉を生み出すベストセラーに。
・1948年(昭和23年)結核を患い喀血。自伝的小説である「人間失格」を執筆し、同年6月13日、当時の愛人、山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺。
【参考】プレミアムカラー国語便覧(数研出版)