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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」戦後〜オイルショックまで(1945年〜1973年)

国際連合発足(1945)

1945年4月〜6月、連合国50ヵ国が参加したサンフランシスコ会で正式に採択され、同年10月に国際連合が発足した。本部はニューヨークに置かれ、英・米・仏・ソ・中の5大国が拒否権を持つ安全保障理事会を設置し、国際紛争解決のための経済的・軍事的制裁を決定する強力な権限を与えた。しかし、米ソ対立が表面化すると、両国による拒否権の発動により、安全保障理事会はしばしば機能不全に陥った。

 

中華人民共和国成立(1949)

戦後中国では国民党共産党との衝突が再燃。蒋介石が率いる国民党政権は、党幹部の腐敗、激しいインフレによる経済混乱で民衆の批判を浴びた。共産党はこの間、支配地域で土地改革を実行して農民の支持を得て1947年から反攻に出た。国民党軍は敗北を重ね1949年12月、蒋介石は台湾に逃れ中華民国政府を維持した。

 

共産党は1949年10月、毛沢東を主席、周恩来を首相とする中華人民共和国の成立を宣言し、首都を北京と定めた。1950年2月、モスクワで中ソ友好同盟相互援助条約が調印され、中国は社会主義圏に属する姿勢を明らかにした。アメリカ合衆国は台湾の中華民国政府を中国の正式代表とする立場をとり、その後長く中華人民共和国と対立した。

 

NATO発足(1949)

東欧諸国へのソ連の影響が強化されていったのに対抗して、西欧5ヵ国(英・仏・ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク))は1948年3月、西ヨーロッパ連合条約を結び、翌年にはアメリカ合衆国を含めた西側12ヵ国が北大西洋条約機構NATOを結成し、武力侵略に協同で防衛することになった。

 

朝鮮戦争(1950〜1953)

南北に分断されていた朝鮮で、1950年6月、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮軍が南北統一をめざして境界線である北緯38度線をこえて侵攻。国連安全保障理事会北朝鮮軍の行動を侵略と認め、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国の支援に向かった。

 

国連軍が北朝鮮軍に反撃し、中国国境近くまで追撃すると、中国は北朝鮮側を支援して人民義勇軍を派遣した。朝鮮半島ではその後、38度線を挟んで攻防が続いたが、1953年に休戦協定が成立し、現在も続く南北の分断が固定化されていった。

 

ワルシャワ条約機構(1955)

ソ連と東欧6ヵ国(アルバニアブルガリアチェコスロバキアハンガリーポーランドルーマニア)は1949年1月、経済相互援助会議コメコン(COMECON))を創設し、1955年5月には協同防衛を定めた東ヨーロッパ相互援助条約(ワルシャワ条約機構を発足させた。

 

キューバ危機(1962)

キューバでは、親米的なバティスタによる独裁政権が続いていたが、1959年、カストロが指導する革命運動が成功した。キューバ社会主義宣言を発表してソ連よりの姿勢を示した。

 

1962年、キューバソ連の支援によるミサイル基地の建設が発覚すると、合衆国のケネディ政権はソ連船の機材搬入を海上封鎖で阻止した。そのため米ソ間で緊張が高まるキューバ危機が発生したが、合衆国のキューバ内政への不干渉と交換に、ソ連がミサイル基地を撤去する合意が成立した。これ以降、米ソ両国は緊張緩和の方向に向かっていった。

 

ベトナム戦争(1965〜1975)

南ベトナムでは、ゴ=ディン=ジエム政権が独裁色を強めるなかで、1960年に南ベトナムの解放をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国北ベトナムと連携して、ゲリラ戦を展開した。

・1963年:ケネディ政権が本格的な軍事援助開始

・1965年:ジョンソン政権が北ベトナムへの爆撃(北爆)にふみきる

ソ連、中国の援助を受けた北ベトナムと解放戦線はもちこたえ、戦局は泥沼化

・1968年:北爆停止。ベトナムとの和平交渉開始

・1973年:ベトナム和平協定が成立

・1975年:北ベトナム軍と解放戦線がサイゴン(現ホーチミン)を占領

・1976年:南北を統一し、ベトナム社会主義共和国が成立

 

中東戦争

第一次中東戦争(1948年)

1945年にアラブ7ヵ国(エジプト・シリア・イラクレバノン・トランスヨルダン・イエメン・サウジアラビア)は、アラブ連盟を結成し、アラブの統一行動を目指した。

 

パレスチナは戦後、イギリスの委任統治の終了に向けて国際連合によってアラブ人地域とユダヤ人地域の分割案を提示された。ユダヤ人はこれを受け入れて1948年イスラエルの建国を宣言したが、アラブ連盟は反対してイスラエルと戦争になった。

 

国際連合の調停によってイスラエルは独立を確保したが、パレスチナから追放された100万人以上のアラブ人は難民となった。

 

第二次中東戦争(1956年)

エジプトでは、1952年に王政を倒してナセルが大統領になったが、イギリス・アメリカ合衆国はナセルの外交姿勢に反発。エジプトへの経済援助を停止したため、ナセルは1956年にスエズ運河の国有化を宣言。これに対し、イギリス・フランス・イスラエルはエジプトに軍事行動をおこした。

 

しかし、この行動は国際世論の批判をまねき、3国は撤退した。これ以降、エジプトはアラブ民族主義の指導的地位についた。

 

第三次中東戦争(1967年)

パレスチナ難民は1964年にパレスチナ解放機構PLOを設置してイスラエルに対する抵抗闘争を強化した。1967年にエジプト・シリアなどとイスラエルの間に戦争がおこり、イスラエルが占領地を拡大する一方で多数の難民が生まれた。この敗北によって、アラブ民族主義は衰退に向かった

 

第四次中東戦争(1973年)

1973年、ナセルの後を継いだエジプトのサダト大統領はシリアとともにイスラエルに反撃し、まもなく停戦になった。その後、サダトは戦争による決着を断念して、イスラエルとの和平に転じ、1979年エジプト=イスラエル平和条約が締結された。

 

オイルショック

1973年、第四次中東戦争がおこると、サウジアラビアなどアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエルを支援する諸国に対して原油輸出の停止や制限の処置をとった。同時に石油輸出国機構OPEC)原油価格大幅引き上げを決定したため、安価な石油を前提に経済成長を続けてきた先進工業国は深刻な打撃を受けた。

 

⑩日本の動き

日本国憲法公布(1946年)

サンフランシスコ平和条約(1951年)

日米安全保障条約(1951年)

・日ソ共同宣言(1956年)

国際連合加盟(1956年)

日韓基本条約(1965年)

・沖縄復帰(1972年)

沖縄米軍基地がベトナム戦争に利用されていたことへの批判が高まり、沖縄返還問題が浮上。1972年に沖縄返還が実現した。

・日中平和友好条約(1978年)

「教科書で学ぶ世界史」第二次世界大戦

ナチス=ドイツの侵略と開戦

・ドイツ民族統合を名目にオーストリアを併合(1938年)

ミュンヘン会談→ズデーデン地方併合(1938年)

チェコスロヴァキア解体(1939年)

独ソ不可侵条約(1939年8月末)

ポーランド侵攻(1939年9月1日)

ドイツはポーランドダンツィヒ(現グダンスク)の返還、東プロイセンへの陸上交通路を要求。ポーランドはこれを拒否したため、ドイツは1939年9月1日にポーランドに侵攻した。イギリス・フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まった。

 

②ヨーロッパの戦争

ソ連フィンランド戦争(1939年〜40年)

・ドイツ、デンマークノルウェーに侵攻(1940年4月)

・ドイツ、オランダ・ベルギーに侵攻(1940年5月)

・ドイツ、パリ占領(1940年6月)

・イギリス、ドイツ軍の侵入を阻止(1940年7月)

ソ連バルト三国エストニア・ラトヴィア・リトアニア)併合(1940年8月)

・ドイツ、バルカン半島制圧(ユーゴスラヴィアギリシア占領)(1941年3月)

 

独ソ戦

1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を無視して、イタリア・ルーマニアフィンランドとともにソ連を奇襲ソ連軍は大きな損失を出しながらも押し返した。これを機に、ソ連はイギリスと同盟を結び、1943年にはイギリス・アメリカなどとの協調を深めるためにコミンテルンを解散した。

 

④太平洋戦争

・日独伊三国同盟(1940年9月)

・日ソ中立条約(1941年4月)

アメリカ合衆国、武器貸与法可決(1941年6月)

中立を守っていたアメリカが、イギリス・ソ連などに武器や軍需品を送り、ファシズム諸国支援の姿勢を明確にした

・日米交渉(1941年4月〜)

アメリカ、対日石油輸出の全面禁止(1941年8月)

・日本、真珠湾パールハーバー)攻撃(1941年12月8日)

・日本、ミッドウェー海戦で大敗(1942年6月)

 

ファシズム諸国の敗北

太平洋戦争の開始とともに、ドイツ・イタリアもアメリカ合衆国に宣戦。日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国(ファシズム陣営)と、アメリカ・イギリス・ソ連など連合国(反ファシズム陣営)の戦争となり、文字通りの世界大戦になった。

 

スターリングラードの戦いで、ソ連がドイツを降伏させる(1943年2月)

・連合軍シチリア島に上陸(1943年7月)

・イタリア、ムッソリーニ解任(1943年7月)

・イタリア無条件降伏(1943年9月)

カイロ宣言(1943年11月)

ローズベルト・チャーチル蒋介石の会談で対日処理方針が発表される

・連合軍、ノルマンディー(北フランス)に上陸(1944年6月)

ヤルタ会談(1945年2月)

米・英・ソの3国でドイツ処理の大綱、秘密条項としてドイツ降伏後3ヶ月以内のソ連の対日参戦を決定。

・米軍、沖縄本島に上陸(1945年4月)

ソ連軍によりベルリン陥落(1945年5月)

・ドイツ無条件降伏(1945年5月7日)

ポツダム宣言発表(1945年7月)

1945年4月に米ローズヴェルトが急死したため、合衆国大統領に昇格したトルーマンは、チャーチル(途中で労働党のアトリーと交替)、スターリンポツダムで会談。ドイツ管理問題と日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表。

・広島に原子爆弾投下(1945年8月6日)

・長崎に原子爆弾投下(1945年8月9日)

・日本、ポツダム宣言受諾(無条件降伏)(1945年8月14日→15日発表)

 

「教科書で学ぶ世界史」戦間期〜民族運動とファシズム〜

第一次世界大戦後の民族運動

第一次世界大戦による列強の資本主義勢力の後退は、東アジアに空前の好景気をもたらした。また、合衆国ウィルソン大統領による民族自決原則の提唱、ロシア革命の成功などは、知識人や労働者に大きな影響を与え、東アジア各地では社会運動・民族運動が活発化した。

 

〈朝鮮〉

日本統治下の朝鮮では、1919年3月1日「独立万歳」をさけぶデモがソウルで始まり、朝鮮全土に広がった(三・一独立運動総督府は軍隊も動員して運動を鎮圧。

 

〈中国〉

・五・四運動(1919年)

1919年のパリ講和会議で中国は二十一ヵ条の取り消しや、山東のドイツ利権の返還を提訴したが、列国によって退けられた。これに抗議して、同年5月4日に北京大学の学生を中心に抗議デモが行われた。この動きは条約反対や排日の声となって波及し、幅広い層を巻き込んだ愛国運動として発展した(五・四運動)。そのため、中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるを得なかった。

 

蒋介石、北伐(1926年)

1921年、コミンテルの支援によって、中国共産党が結成された。一方、中国国民党を基盤に革命運動の推進を目指した孫文ソ連の援助を受け入れて顧問を招いた。1925年7月、国民党は広州で国民政府を樹立し、翌年、蒋介石の率いる国民革命軍が中国統一を目指して北伐を開始した。日本の謀略によって爆死した張作霖の子、張学良が日本に対抗するために国民政府の東北支配を認めたので、国民政府の全国統一は達成された。

 

〈インド〉

・ガンディーの非暴力・不服従運動(1920年

植民地政府の圧政に対し、非暴力を掲げて民衆の指導者として登場したのがガンディーだった。ガンディーは1920年国民会議派大会で非協力運動を提示し、民族運動をエリートだけでなく民衆も加わる運動へと脱皮させた。しかし、運動は非暴力を旨とするガンディーの思い通りには進まず、農民による警察官殺害事件が発生したため中止された。

 

インドネシア

オランダが支配するインドネシアでは、1920年インドネシア共産党が結成され、独立をとなえた。その運動が弾圧によってほぼ壊滅した後は、オランダから帰国した留学生が運動の実権を握った。1927年にはスカルノを党首とするインドネシア国民党が結成され翌年にインドネシアという統一された祖国・民族・言語を目指す宣言がなされた。

 

〈トルコ〉

オスマン帝国第一次世界大戦で同盟国側にたって参戦して敗れ、アラブ地域を喪失。1919年にギリシア軍がエーゲ海沿岸地域を占領すると、軍人のムスタファ=ケマルトルコ人の主権と国土をまもるために抵抗運動を指導し、トルコ大国民会議を組織した。1922年、彼はギリシア軍を撃退した後、スルタン制を廃止し、24年にはカリフ制も廃止した。1923年には連合国とのあいだにローザンヌ条約を結んで新しい国境を定め、治外法権の廃止、関税自主権の回復にも成功して、アンカラを首都とするトルコ共和国を樹立した。

 

ファシズム

ムッソリーニ

イタリアは戦勝国だったが領土拡大を実現できず、講和条約に不満を持った。一方、国民は戦後のインフレーションで生活を破壊され、政府への不信を強めた。このようななか、ムッソリーニの率いるファシスト党が勢力を拡大した。ファシスト党は危機の原因を左翼勢力の活動や議会制民主主義にあると考え、左翼の運動を暴力で攻撃し、強権的な指導者や国家が国民生活を統制して国民統合をはかることを主張し(全体主義、政府を攻撃した。1922年、ムッソリーニファシスト党による「ローマ進軍」を組織して政府に圧力をかけ、国王の支持で首相に任命された。

 

ヒトラー

ドイツは合衆国に次いで世界恐慌(1929年)の影響が大きく、1930年にはヒトラーを指導者にしたナチ党共産党などの反議会勢力が伸長して、国会は機能麻痺に陥っていた。ヒトラーはイタリアのファシズムなどに学び、ユダヤ人排斥を主張する人種差別主義、ヴェルサイユ条約破棄、民族共同体建設による国民生活の安定をとなえた。1932年の選挙でナチ党は第一党になり、1933年1月、ヒトラーは首相に任命された。

 

スターリン

ソ連では1924年レーニンが死ぬと後継者争いがおこった。1922年、共産党書記長になったスターリンは、ソ連一国だけで社会主義建設ができるとする一国社会主義を掲げ、世界革命を主張するトロツキーらを追放して実権を握った。1928年、重工業化の推進による社会主義建設を指示し、第一次五カ年計画を実行した。農業でも集団化と機械化が命じられ、集団農場(コルホーズ国営農場(ソフホーズ建設が強行された。

「教科書で学ぶ世界史」第一次世界大戦(1914年〜1918年)

オーストリアボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合(1908)

オーストリア(ゲルマン系)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(スラブ系)を併合

ボスニア・ヘルツェゴヴィナはかつてからスラブ系のセルビア編入を望んでいた

→スラブ系民族主義者の反発

 

②ロシアがバルカン同盟を結束させる(1912年)

※バルカン同盟(セルビアブルガリアモンテネグロギリシア

 

③第一次バルカン戦争(1912〜1913)

バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し勝利

 

④第二次バルカン戦争(1913)

第一次バルカン戦争後の領土の分配をめぐり、ブルガリアと他のバルカン同盟国が対立

ブルガリアの敗北

バルカン半島での勢力関係の変動は列強間の対立を悪化させ、バルカン半島「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

 

サライェヴォ事件(1914年6月末)

オーストリア帝位継承者夫妻がサライェヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺される。

スラブ系の民族運動をおさえる好機とみて、オーストリアはドイツの支持を得てセルビアに宣戦(第一次世界大戦の始まり)

→ロシアはセルビア支持を表明

三国同盟側(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商側(ロシア・フランス・イギリス)に従って参戦。

三国同盟側にはオスマン帝国ブルガリアが参戦

三国協商側(連合国)には日本(日英同盟の関係)、対戦後半にはアメリカ合衆国や、同盟側から離れたイタリアが参戦。

 

⑥ドイツが中立国ベルギーに侵入(1914年)

⇒さらに北フランスに侵入したがマルヌの戦いで阻止される

※以降、西部戦線では両軍とも塹壕にたてこもり、航空機・毒ガス・戦車などの新兵器を投入し一進一退を繰り返す戦況に。

⇒ドイツがタンネンベルグの戦いでロシア軍を破りロシア領内に進撃

※国土の広さやきびしい冬の気候のため決着の見通しが立たなかった。

 

ロシア革命(1917年)

ロシア軍は敗北を重ね、輸送危機も加わって都市への食料・燃料供給が低下

→国民の間で戦争継続に反対の声

⇒首都ペトログラードで大規模なデモ(1917年3月8日)

⇒労働者・兵士はソヴィエトを組織して革命を推進

→皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝が消滅。帝政が崩壊。

立憲民主党などの自由主義諸党派の議員は臨時政府を樹立(二月革命

※ソヴィエトも存続したため、二重権力状態が続く

ボリシェヴィキマルクス主義を掲げるロシア社会民主労働党の多数派組織)の指導者レーニンが亡命先のスイスから帰国(1917年4月)

→7月にあらたに首相になったケレンスキーと対立

レーニントロツキーらは11月7日武装蜂起を指示し、政府を倒す十月革命

 

⑧ドイツとソヴィエトの講和

1913年3月、ドイツはソヴィエト=ロシア(ロシア革命政府)と単独講和を結び、西部戦線で攻勢に出たが失敗。8月から連合軍の反撃が始まる。

ブルガリアオスマン帝国降伏

オーストリア降伏

→ドイツも疲弊し11月11日に休戦協定に調印

 

ヴェルサイユ体制

パリ講和会議(1919年1月)

⇒ウィルソン大統領の十四カ条が講和の基礎

・秘密外交の廃止

・海洋の自由

・関税障壁の廃止

・軍備縮小

・ヨーロッパ諸国民の民族自決

・植民地問題の公正な解決

・国際平和機構の設立⇒国際連盟アメリカは上院の反対で不参加)

⇒ドイツとのヴェルサイユ条約調印(1919年6月)

・ドイツはすべての植民地を失う

・巨額の賠償金の支払い

パリ講和会議で決定したヨーロッパの新国際秩序をヴェルサイユ体制とよぶ

 

⑩ワシントン体制

ワシントン会議(1921〜1922)

アメリカ合衆国のハーディングの提唱で、合衆国・イギリス・フランス・日本など9ヵ国が参加するワシントン会議が開かれた。

※九ヵ国条約

・海軍軍備制限条約(主力艦の保有トン数比率を定める)

・中国の主権尊重・領土保全

※四ヵ国条約(合衆国・イギリス・フランス・日本)

日英同盟の解消

ワシントン会議で決まったアジア太平洋地域の国際秩序をワシントン体制という

「教科書で学ぶ世界史」19世紀後半〜20世紀初頭

 

アメリ

南北戦争とその結果〉

第七代のジャクソン大統領の時代には西部開拓が推進された。ジャクソン大統領は南部をおもな基盤とする民主党の結成を促進した。南部諸州が、連邦議会における優位を維持するため、西部に奴隷制を拡大しようとしたのに対し、北部諸州は対抗して自由州を拡大しようとしたため、南部と北部の対立は激化した。

 

奴隷制反対をとなえる共和党が結成されると、奴隷制をめぐる南北の対立は決定的になった。1860年の大統領選挙では、共和党リンカンが当選した。リンカンは連邦の統一維持を優先させたが、南部諸州は連邦からの分離を決定し、1861年初め、南部はアメリカ連合国をつくってジェファソン=デヴィスを大統領に選び、南北戦争が始まった。

 

1861年1月、リンカンは南部反乱地域の奴隷解放宣言を出し、内外世論の支持を集め始め、同年のゲティスバーグの戦いに勝利をおさめて以降、北軍が優勢となり、合衆国は再統一された。

 

アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)〉

19世紀末に世界第一位の工業国となったアメリカ合衆国では、巨大企業の登場によって自由競争が交代する一方、東欧・南欧からの移民の大量流入による都市の貧困問題などが表面化していた。西部でフロンティア(荒野と過疎地の境界地域の人口過疎地域)が消滅するにつれ、帝国主義政策を求める声も高まっていった。共和党のマッキンリー大統領は、キューバ独立運動に乗じて、1898年アメリカ=スペイン戦争(米西戦争をおこし、勝利した。その結果、フィリピンプエルトリコなど、太平洋・カリブ海のスペイン領植民地を獲得するとともに、キューバに対しては財政や外交を制限する「プラット条項」を押し付け、保護国化した。

 

②ヨーロッパ

プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)〉

ナポレオン三世は、英仏通商条約を結んで自由貿易の原則のもとに国内産業を育成する一方、国民の人気を維持するために、クリミア戦争をはじめ、アロー戦争イタリア統一戦争インドシナ出兵などの積極的な対外政策を展開した。彼がメキシコ遠征に失敗し、プロイセン=フランス(普仏)戦争(ドイツ=フランス戦争)に敗れると、パリで蜂起がおこり、帝政は崩壊し、臨時国防政府が成立した(1870年9月)。

 

フランスはドイツへの賠償金を予定より早く完済したが、国内では将来の政体をめぐて王党派と共和派の対立が続いた。1875年になって共和国憲法が制定され、第三共和制の基礎がすえられた。

 

ドイツ帝国の成立〉

1871年1月、ヴェルヘルム1世は、ヴェルサイユでドイツ皇帝の位につき、ドイツ帝国が成立した。帝国はドイツの諸邦で構成される連邦国家で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねた。ビスマルクは宰相として約20年間、なかば独裁的な権力をふるった。

 

ビスマルク外交〉

・三帝(ドイツ・オーストリア・ロシア)同盟(1873年

・ロシア=トルコ(露土)戦争(1877年)

・サンステファノ条約(1878年

・ベルリン条約(1878年

三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)結成(1882年)

ビスマルクは、フランスを孤立させてドイツの安全をはかるため、クリミア戦争以来機能しなくなっていたヨーロッパの列強体制を再構築した。1873年ドイツ・オーストリア・ロシアは三帝同盟を結んだが、ロシアはバルカンで勢力拡大をはかり、オーストリアと対立するようになった。

 

1875年、オスマン帝国下のボスニア・ヘルツェゴヴィナで農民反乱が発生し、翌年にはブルガリアでも独立を求める蜂起がおこった。ロシアは蜂起側との協議を求めたが、オスマン政府は武力で蜂起を鎮圧した。そのためロシアは1877年、オスマン帝国に開戦して勝利し、サンステファノ講和条約によって、ブルガリアを保護下におくことを認めさせ、勢力拡大に成功した。

 

しかし、オーストリア・イギリスがこれに反発したため、ビスマルクベルリン会議を開き、列国の利害を調停した。その結果、サンステファノ条約は破棄され、新たに結ばれたベルリン条約によって、ロシアの拡大はおさえられた。これによりロシアは一時南下政策をひかえ、中央アジア・東アジアへの進出につとめるようになった

 

ビスマルクはまた、フランスによるチェニジアの保護国化に不満を持つイタリアを誘い、1882年にドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟を結んだ。1881年に新たに結ばれた三帝同盟は、オーストリアとロシアの対立が激化して1887年に消滅。同年、ドイツ・ロシア間に再保障条約を結び、フランスを包囲する体制を続けようとした。

 

三国協商の成立〉

1890年、ドイツは対外行動の自由を広げるため、ロシアとの再保障条約更新を見送った。これに反発したロシアはフランスと露仏同盟を結んだ。イギリスは東アジアにおけるロシアの進出に対抗して1902年に日英同盟を結び、ドイツの挑戦に備えれ1904年フランスと英仏協商を成立させた。やがて、日露戦争に敗北したロシアが東アジアからバルカン半島への進出策に転じると、ドイツ・オーストリアと衝突するようになった。そのため、ロシアはイギリスと和解し、1907年英露協商を成立させた。イギリス・フランス・ロシアは、ドイツ・オーストリア・イタリアを共通の驚異とみて、協力してそれぞれの植民地や勢力圏を守ろうとした。この三国の提携を三国協商と呼ぶ。

 

③インド

インド帝国の成立〉

1858年、イギリスは東インド会社を解散し、インドの直接統治に乗り出した。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に即位し、総督は副王を兼任した。こうして、イギリス支配下カルカッタを首都にインド帝国が成立し、以降1947年の独立まで存続した。

 

④中国

辛亥革命と皇帝政治の終焉〉

孫文は、ばらばらだった革命諸団体の結集をはかり、1905年に日本の東京で中国同盟会を組織した。中国同盟会は、満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする「民族・民権・民生」三民主義を掲げて、革命宣伝や武装蜂起をおこなった。

 

1911年10月に武昌(湖北省)の軍隊のなかにいた革命派が蜂起し、辛亥革命が始まった。蜂起はたちまち各省に広がり、1ヶ月で大半の省が独立を表明した。革命軍は帰国した孫文を臨時大統領に選出し、1912年1月、南京で中華民国の建国を宣言し、アジア初の共和国が成立した。1912年2月の宣統帝(溥儀)の退位により、2000年以上にわたる中国の皇帝政治は終わりをつげた。

 

⑤日本

〈江戸時代〉

大政奉還(1867年)

〈明治時代〉

日清戦争(1894年)

日英同盟(1904年)

日露戦争(1904年)

ポーツマス条約(1905年)

韓国併合(1910年)

「教科書で学ぶ世界史」19世紀前半〜ウィーン体制とアヘン戦争〜

①ヨーロッパ

ウィーン会議(1814)

・フランス、七月革命(1830)

・フランス、二月革命(1848)

クリミア戦争(1853)

ウィーン体制の成立〉

1814年から翌年にかけて、フランス革命とナポレオンによる一連の戦争の戦後処理のため、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの支配者が参加する国際会議がウィーンで開かれた

【決定事項】

・フランスやスペインでブルボン家が復活

ロシア皇帝ポーランド国王を兼ねる

プロイセンは東西に領土を拡大

・イギリスは旧オランダ領のスリランカ・ケープ植民地の領有を認められる

・オランダは旧オーストリアネーデルランド(ベルギー)をゆずられる

オーストリアは北イタリアを得る

・スイスは永世中立国となる

・ドイツにはオーストリアプロイセン以下の35の君主国とハンブルグなど4自由市で構成されるドイツ連邦があらたに組織された

 

ウィーン会議の結果、フランス革命とナポレオン体制下にヨーロッパ各地に広まった自由主義国民主義ナショナリズム)はおさえられ、ヨーロッパの政治的現状維持を目指す保守主義が優位になった。

 

七月革命によるウィーン体制の動揺〉

フランスでは国王シャルル10世が、きびしい制限選挙制をとる立憲君主制のもとで貴族・聖職者を重視する反動政治をおこなった。選挙で反政府派が圧勝すると、未招集のまま議会を解散した。これに抗議して1830年7月、パリに革命がおこり、シャルル10世は亡命し、自由主義者として知られたオルレアン家ルイ=フィリップが王に迎えられ、七月王政が成立した。

 

七月革命の影響は各地に広がった。

・ベルギーがオランダから独立

ポーランド、ドイツ、イタリアでも蜂起がおこったが鎮圧

・西欧諸国は反自由主義・反民族運動的な政治姿勢に協調しなくなる

 

二月革命によるウィーン体制の崩壊〉

七月王政下のフランスでは、銀行家など一部の富裕層に富が集中し、選挙権も多額納税者のみに与えられる極端な制限選挙による政治がおこなわれた。このため、中小資本家や民衆のあいだには選挙権拡大を求める動きが広まり、1848年2月、パリで革命がおこった。国王ルイ=フィリップは亡命し、共和政の臨時政府が樹立された。

 

二月革命はその後ドイツ・オーストリアにも波及。さらにベーメンハンガリー・イタリアでも民族運動が高揚し、これによってウィーン体制は崩壊した。ヨーロッパ各地で起こった一連の革命・民族運動を1848年革命と総称される。

 

クリミア戦争

ロシアは1848年革命ではオーストリアを支援してハンガリーの民族運動を制圧し、反革命の擁護者となって「ヨーロッパの憲兵と呼ばれた。ニコライ1世は、ロシアの立場が国際的に有利になったこの機会を利用して、南下政策を推進しようとした。そこで、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を理由に、1853年、オスマン帝国と開戦した。

 

イギリス・フランスはロシアの南下を阻止するため、オスマン帝国を支援したので、戦争はヨーロッパ列強同士の戦いとなった。クリミア半島セヴァストーポリ要塞をめぐる激しい攻防の末、ロシアは敗れ、56年パリ条約が結ばれた。ロシアは黒海の中立化と40年のロンドン条約の取決めを再確認させられた。

 

②中国

※清(1636〜1912)

 

三角貿易のはじまりとアヘン戦争

18世紀後半に広州の対外貿易の大半を占めていたイギリスでは、本国での茶の需要にともなって中国茶の輸入が急速に増加していた。しかし、産業革命で生産をのばした綿製品は中国ではなかなか売れず、輸入超過の結果、大量の銀が中国に流入していた。

 

これを打開するために、19世紀初めからは、中国の茶をイギリスに、イギリスの綿製品をインドに、インド産のアヘンを中国に運ぶ三角貿易を始めた。中国では、アヘンの吸引が広がり、アヘンの密貿易が増え、従来とは逆に大量の銀が国外に流出するようになった。

 

1839年林則除は、広州でアヘンを没収廃棄処分したうえ、今後アヘン貿易をしないという誓約をイギリス商人にせまった。アヘン貿易ではイギリス国内でも批判が強かったが、イギリス政府は自由貿易の実現をとなえて海軍の派遣を決定。1840年アヘン戦争をおこした。

 

アヘン戦争で、清はすぐれた兵器をもつイギリス海軍に連敗し、1842年に南京条約を結び、香港島の割譲、上海など5港の開港、賠償金の支払いなどを認めた。翌年には、領事裁判権、協定関税制、最恵国待遇などを認める不平等条約を結んだ。1844年にはアメリカ合衆国、フランスと同様の条約を結んだ。

 

〈アロー戦争と北京条約〉

戦後の交易でも欧米諸国が期待したほどの利益はあがらず、不満をいだいたイギリスは条約改正の機会を伺っていた。1856年広州で、イギリス船籍を主張する船の中国人乗組員が海賊容疑で逮捕されるというアロー号事件がおこった。イギリスはこれを口実とし、フランスに呼びかけて共同出兵をおこない、アロー戦争をおこした。英仏軍は広州を占領し、海路北上して天津にせまり、1858年に南京条約を結んだ。しかし、翌年、批准書交換の使節の入京を清軍が武力で阻止したことをきっかけに英仏軍は再度出兵して北京を占領し、1860年北京条約を結んだ。

 

清は、外国公使の北京駐在、天津など11港の開港、外国人の中国内地での旅行の自由、キリスト教布教の自由などを認め、イギリスに九龍半島南部を割譲した。同じ頃、アヘン貿易も公認された。

 

③日本(江戸時代)

フェートン号事件(1808)

イギリスのフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を連れ去り港内で乱暴をはたらくという事件

異国船打払令(1825)

水野忠邦天保の改革(1841〜1843)

・ペリー来航(1853)

日米和親条約(1854)

日米修好通商条約(1858)

「教科書で学ぶ世界史」18世紀〜イギリス産業革命とアメリカ合衆国の独立〜

①ヨーロッパ

〈ドイツ(プロイセンオーストリア)〉

オーストリア継承戦争(1740〜48)

七年戦争(1756〜1763)

スペイン継承戦争神聖ローマ皇帝をたすけて王国に昇格したプロイセンは、1740年、大王のフリードリヒ2世が、オーストリアマリア=テレジアハプスブルク家の全領土を継承したことに異議をとなえて、資源の豊富なシュレジエンを占領した。フリードリヒは、イギリスに支援されたオーストリアと戦い、シュレジエンを獲得した。

 

シュレジエン奪回を目指すマリア=テレジアは、長年敵対関係にあったフランスと同盟し、ロシアも味方した。このためフリードリヒが1756年にはじめた七年戦争では、イギリスと結んだプロイセンは苦戦したが、1763年にはオーストリアと有利な和平を結んでシュレジエンを確保し、ヨーロッパの強国の地位についた

 

フランス革命

フランス革命(1789〜1799)

・人権宣言(1789)

ナポレオン戦争(1796〜1815)

絶対王政の国フランスで、王権に対する貴族の反抗をきっかけにフランス革命がはじまり、結果的に有産市民層が旧制度を廃棄して、その政治的発言力を確立する結果となった。農民・都市民衆は旧制度の廃棄に重要な役割を担ったが、同時に有産市民層が推進した資本主義経済にも反対した。

 

イギリスとの戦争をくりかえしたフランスの国家財政はいきづまり、国王ルイ16世は特権身分に対する課税などの財政改革を試みたが特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれなかった三部会(聖職者・貴族・平民の代表が参加)が召集されることになった。第三身分(平民)の議員は憲法制定までは解散しないことを誓った。また、パンの値上がりに苦しんでいたパリの民衆は、これに反発して圧政の象徴とされたパリのバスティーユ牢獄を攻撃した。

 

国民議会は1789年8月4日に自由主義的貴族の提案で封建的特権の廃止を決定し、領主裁判権や教会への十分の一税が無償で廃止された。また、8月26日、議会はラ=ファイエットらの起草した人権宣言を採択したが、この宣言は、すべての人間の自由・平等、主権在民言論の自由私有財産の不可侵など、近代市民社会の原理を主張するものだった。

 

あらたに男性普通選挙による国民公会が成立すると、急進共和主義のジャコバン派が力を増し、ルイ16世は1793年1月に処刑された。ジャコバン派没落後は穏健共和派が有力となり、5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。

 

革命がイギリス国内に波及することを警戒したイギリス首相ピットは、フランス軍がベルギー地方に侵入したのに対抗してフランス包囲の大同盟(第一回対仏大同盟)をつくった。1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第二回対仏大同盟を結んでフランス国境を脅かすと、総裁政府は国民の支持を失った。軍事司令者として頭角を表していたナポレオン=ボナパルトは総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権を握った。1789年以来10年間におよんだフランス革命はここに終了した。

 

〈イギリス産業革命

・飛び杼(ジョン=ケイ、1733)

・多軸紡績機(ハーグリーヴズ、1764頃)

・水力紡績機(アークライト、1769)

蒸気機関の改良(ワット、1769)

・ミュール紡績機(クロンプトン、1779)

・力織機(カートライト、1785)

17世紀末には、インドから輸入された、より軽い綿布の需要が高まった。綿布とその原料である綿花は、大西洋の三角貿易(ヨーロッパから武器や雑貨などをアフリカにおくり、それと交換で得た奴隷をアメリカ大陸・西インド諸島におくりこんでそこで得た農産物をヨーロッパに持ち込んで売りさばく)で重要な商品となり綿工業が発達した。1769年にワットが蒸気機関を改良すると、これが水力にかわって紡績機や力織機などの動力として利用され、生産の効率をさらに高めた。

 

アメリ

アメリカにおける植民地争奪〉

イギリスは17世紀初頭、北アメリ東海岸に最初の植民地ヴァージニアを設けた。その後、多くのピューリタンが本国での迫害を逃れて北アメリカに移住し、ニューイングランド植民地が形成され、18世紀前半までにはイギリスの13の植民地が南北にならぶ形になった。イギリスからの入植者はラテンアメリカのヨーロッパ人植民者の場合と異なり、先住民と融合しなかった。

 

アメリカでは七年戦争と並行してフレンチ=インディアン戦争と呼ばれるイギリスとフランスの植民地戦争が戦われた。この戦争に勝ったイギリスは、1763年のパリ条約でカナダとミシシッピ川以東のルイジアナ、フロリダ、西インド諸島の一部およびセネガルを獲得した。フランスは、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに譲渡したので、北アメリカにおける領土をすべて失い、イギリス植民地帝国の基礎がすえられた。

 

アメリカ合衆国の独立〉

1774年、植民地側は大陸会議を開いて本国に自治の尊重を要求。翌年には武力衝突がおこり、独立戦争が始まった。植民地側はワシントンを総司令官に任命して戦い、1976年7月4日、13植民地の代表はフィラデルフィア独立宣言を発表した。この宣言は、圧政への抵抗権を主張したロックらの思想を参考にして、トマス=ジェファソンらが起草した。

 

独立軍は当初苦戦したが、イギリスと対立していたフランスやスペインの参戦、ロシアなどによる武装中立同盟の結成にも助けられ、ヨークタウンの戦いに敗れたイギリスは1783年のパリ条約でアメリカ合衆国の独立を承認し、ミシシッピ川以東の広大な領地を譲った。

 

〈合衆国憲法の制定〉

独立後のアメリカ合衆国は、まだ13の独立した州のゆるい連合にすぎず、中央政府の権力は弱かった。そこで、1787年合衆国憲法がつくられた。この憲法では人民主権を基礎とした共和制の採用を決定し、各州に大幅な自治を求めながらも、中央政府の権限を強化する連邦主義を採用した。合衆国の行政権は大統領の率いる政府に限り、立法権連邦議会にあり、司法権最高裁判所が行使するという形で抑制し合うことによって権力の乱用をさける三権分立の原則を定めた。1789年、この憲法に基づく連邦政府が発足し、ワシントンが初代大統領に就任した。

 

③日本(江戸時代)

徳川吉宗享保の改革(1716〜1745)

田沼意次の政治(1772〜1786)

天明の飢饉(1783)

松平定信寛政の改革(1787〜1793)