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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」ソ連邦解体

ゴルバチョフ就任前の状況

・世界的な民主化の流れ

・核軍拡競争(経済的負担の増大)

・中ソ対立

アメリカと対決路線だった毛沢東が、ソ連は平和共存路線を批判。ソ連は1960年に中国への経済援助を停止し、1969年には国境で軍事衝突。

 

ゴルバチョフ書記長就任後の流れ

1985年:ゴルバチョフソ連共産党書記長就任

・情報公開(グラスノスチ)による言論の自由

ペレストロイカ(国内改革)

1989年:バルト三国独立運動エストニア・ラトヴィア・リトアニア

1989年:中ソ対立解消

1990年:複数政党制採用

1990年:大統領制導入、初代大統領にゴルバチョフ就任

中央司令型の計画経済から市場経済への移行

1991年6月:コメコン解散

1991年7月:ワルシャワ条約機構消滅

1991年8月:軍部・保守派のクーデター失敗

1991年9月:バルト三国独立

1991年12月:CIS(独立国家共同体形成)⇒ソ連邦解体

連邦維持を主張する保守派のクーデター失敗後、ウクライナアゼルバイジャンなどほとんどの共和国が連邦からの離脱を宣言。連邦を結びつけていたソ連共産党も解散した。1991年12月に、エリツィンを大統領とするロシア連邦を中心に、ウクライナベラルーシなどの11の共和国が独立国家共同体(CIS)を結成し、ソ連邦は解体した。

 

ソ連邦解体後の旧ソ連周辺部

1994年:チェチェン紛争(ロシアからの独立を求める運動)

2000年:プーチン大統領就任

2008年:メドヴェージェフ大統領就任

2012年:プーチン再び大統領に就任

2014年:クリミア編入を表明

1954年に、ソ連はクリム半島をウクライナ編入。1991年ウクライナ独立。2004年のオレンジ革命ウクライナは親露派から親欧米派へ。2013年に、ウクライナ政府がEUNATO加盟の意向を示すと、クリミアやウクライナ東部のロシア系住民が分離運動をおこし、2014年にロシアがクリミアを連邦に編入することを表明したことで内戦の様相に。

 

 

「教科書で学ぶ世界史」第一次中東戦争(パレスチナ戦争)って何?

パレスチナって何?

BC1500年:遊牧民であったヘブライ人(ユダヤ人)がパレスチナに定住

BC538年:バビロン捕囚から解放されユダヤ人がイェルサレムに帰国

イェルサレムヤハウェの神殿を再興。ユダヤ教を確立

1071年:セルジューク朝イェルサレム占領

1099年:第一次十字軍がイェルサレムを占領し、イェルサレム王国をたてる

1187年:アイユーブ朝を樹立したサラディンイェルサレム奪回

1916年:サイクス・ピコ協定

・英仏露の3国によるオスマン帝国の分割(アラブ人居住地の主要地は英・仏領)

・英・仏の勢力範囲下におけるアラブ人の独立を容認

パレスチナは国際管理下に

 

第一次中東戦争パレスチナ戦争)の原因は?

1915年:フセイン・マクマホン協定

イギリスがアラブ人にオスマン帝国からの独立を約束

 

1917年:バルフォア宣言

イギリスがユダヤ人のパレスチナ復帰運動(シオニズム)を援助する姿勢を示す。

 

1939年〜45年:第二次世界大戦

戦後パレスチナはイギリスの委任統治領となったので、アラブ・ユダヤの両民族はそれぞれの主権を主張して衝突し、現在まで続く深刻な対立が始まった。

 

1947年:国連総会、パレスチナ分割案採択

国連によるアラブ人地域とユダヤ人地域の分割案提示。ユダヤ人はこれを受け入れたが、アラブ連盟(エジプトとアラブ7カ国が1945年に結成)は拒否。

 

1948年:イスラエル建国

アラブ連盟は反対してイスラエルと戦争になったパレスチナ戦争、第一次中東戦争国際連合の調停によってイスラエルは独立を確保したが、パレスチナから追放された100万人以上のアラブ人は難民になった

「教科書で学ぶ世界史」右翼左翼とフランス革命

●左翼・右翼って何?

goo辞書より

左翼

フランス革命当時、議会で議長席から見て左方に急進派のジャコバン派がいたことから、社会主義共産主義無政府主義などの革新的な思想。またそのような人・団体。

 

右翼

フランス革命当時、議会で議長席から見て右方に穏和派のジロンド派が席を占めていたことから、保守的または国粋的な思想、立場の一派。また、その者。

 

フランス革命期の議会

①三部会招集(1789年5月)

イギリスとの戦争をくりかえしたフランス国家の財政が行き詰まり、国王ルイ16世は、デュルゴー・ネッケルらの改革派を起用して、特権階級に対する課税などの財政改革をこころみた。しかし、特権身分が抵抗したため、1615年以来開かれていなかった三部会を招集。

(第一身分:聖職者291人)

(第二身分:貴族285人)

(第三身分:平民578人)

議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立

 

②国民議会成立(1789年6月)

三身分の議員が、自分たちが真に国民を代表する議会であると宣言し、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場(テニスコート)の誓い)。特権身分からも同調者があらわれると、国王も譲歩してこの動きを認めた。

 

1789年7月:バスティーユ牢獄襲撃

まもなく、国王と保守的な貴族は武力で国民議会を弾圧しようとした。これに反発して民衆は圧政の象徴とされたパリのバスティーユ牢獄を攻撃した。

 

1789年8月:封建的特権の廃止宣言

1789年8月:人権宣言採択(ラ=ファイエットらが起草)

1789年10月:ヴェルサイユ行進(王家をパリに移転させる)

1791年3月:ギルド廃止

1791年6月:ヴァレンヌ逃亡事件

ルイ16世王妃マリ=アントワネットの実家のオーストリアに逃亡をこころみたが失敗。

1791年9月:1791年憲法制定

 

③立法議会成立(1791年10月)

フイヤン派(ラ=ファエットなど)(右派)264人)

(中間派345人)

ジロンド派中心(左派)136人)

革命のこれ以上の進展を望まないフイヤン派立憲君主派)と大商人の利害を代表して共和制を主張するジロンド派が対立。1792年3月にジロンド派が政権を握った。

1792年8月:テュイルリー宮殿襲撃→王権停止

 

国民公会召集(1972年9月)

男性普通選挙法により議員選出。共和制の樹立が宣言された第一共和政

ジロンド派(右派)137〜178人)

ジャコバン派山岳派)(左派)258人〜302人)

国民公会ではジャコバン派が力を増し、1793年1月にルイ16世は処刑された。

 

1793年2月:第一回対仏大同盟(英首相ピットの提唱)

フランス革命がイギリス国内に波及することを警戒

 

1793年6月:ジャコバン派によるジロンド派の追放(処刑)

ジャコバン派ロベスピエールを中心とした恐怖政治が始まる。

 

1794年7月:テルミドール9日のクーデタ

独裁への不満が次第に高まり、ロベスピエールはパリ民衆の支持も失って孤立。テルミドール9日のクーデターで処刑された。

 

⑤総裁政府成立(1795年10月)

ジャコバン派の没落の後、穏健共和派が有力となり、1795年に5人の総裁からなる総裁政府が樹立された。1799年までにイギリスがロシア・オーストリアなどと第二回対仏大同盟を結んでフランス国境をおびやかすと、総裁政府は国民の支持を失った。

 

⑥統領政府成立(1799年11月)

1796年、イタリア派遣軍司令官としてナポレオン・ボナパルトオーストリア軍を破り、1798年にはイギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した。帰国したナポレオンは1799年11月、国民の支持を失っていた総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府をたて、第一統領として事実上の独裁権を握った(ブリューメル18日のクーデタ)

 

「教科書で学ぶ世界史」中華民国の成立

●列強による中国分割

日清戦争(1894年〜1895年)での清の敗北をきっかけに、日本・ロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどの列強は清朝領土内での鉄道敷設・鉱山採掘などの利権獲得競争に乗り出した。

 

義和団事件(1901年)

山東の農村の自警団組織を基盤にうまれてきた宗教的武術集団の義和団「扶清滅洋」をとなえて鉄道やキリスト教教会を破壊。清朝の保守排外派は、この運動を利用して列強に対抗しようとして各国に宣戦布告した。

 

日本とロシアを主力とする8カ国の連合軍(イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストラリア・イタリア)は在留外国人の保護を名目に協同出兵にふみきり、北京を占領。清は1901年に北京議定書に調印し、巨額の賠償金の支払いと、外国軍隊の北京駐屯を認めた。

 

辛亥革命による共和国誕生

孫文の中国同盟会)

海外では、漢人による清朝の打倒を目指す革命が盛んになっていた。興中会を指導する孫文は、バラバラだった革命諸団体の結集をはかり、1905年に東京で中国同盟会を組織。中国同盟会は、満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする「民族(異民族支配の打倒)・民権(共和国家の樹立)・民生(土地の均分化)」三民主義を掲げて、武装蜂起を行った。

 

辛亥革命

1911年10月に武昌の軍隊のなかにいた革命派が蜂起し、辛亥革命が始まった。蜂起はたちまち各州に広がり、1ヶ月のうちに大半の省が独立を表明。革命軍は帰国した孫文を臨時大統領に選出し、1912年1月、南京で中華民国の建国を宣言し、アジア初の共和国が誕生した。

 

宣統帝の退位)

清側は、北洋軍をにぎる袁世凱を革命軍との交渉にあたらせたが、清朝を見限った袁は、清帝の退位と共和政の維持を条件に、孫文から臨時大統領の地位を譲り受け、北京で就任した。1912年2月の宣統帝(溥儀)の退位により、中国の皇帝政治は終わりを告げた。

 

袁世凱孫文の対立

その後、共和政は安定せず、議会の力をおさえようとする袁世凱とこれに対抗する孫文らの国民党が激しく対立。孫文らの武装蜂起(第二革命)を鎮圧して正式な大統領の座についた袁は独裁をすすめ、自ら帝位につこうとした。

 

しかし、国民党系の地方軍人がおこした第三革命や諸外国の不支持により、帝政復活は失敗し、袁はその後病死した。袁の死後は、列強の支援を受けた軍閥が各地に分立して互いに抗争し、北京政府の実権を争奪する不安定な状況が数十年にわたって続いた。

「教科書で学ぶ世界史」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国

ウェールズの併合

1536年:ウェールズケルト系)イギリス併合

 

アイルランドの植民地化

1603年:スチュアート朝成立

スコットランド出身のスチュアート家のジェームズ1世(スコットランドではジェームズ6世)が王位を継ぐスコットランドとの同君連合)

 

1639年:スコットランドで反乱

国教会強制に反発し、スコットランドで反乱がおこったことから、チャールズ1世は1640年に、11年間開いていなかった議会を招集。1642年には王党派と議会派のあいだに内戦がおこった。

 

1649年:国王処刑⇒共和制に

議会派は国王との争いを徹底しようとする独立派と、より穏健で立憲王政をめざす長老派に分裂。独立派のクロムウェルピューリタンを中心に鉄騎隊を編成し、議会派を勝利に導いた後、長老派を追放し、1949年にチャールズ1世を処刑して共和制をうち立てた。

 

1649年:アイルランド征服

クロムウェルは、王党派の拠点となったとして、アイルランドスコットランドを征服。大規模な土地没収が強行されたアイルランドは、事実上植民地化された。

 

スコットランド併合

1653年、クロムウェルは終身の護国卿となり、厳格な軍事独裁体制をしいたが、国民の不満が高まり、彼の死後、1960年にチャールズ1世の子が国王チャールズ2世として迎えられた(王政復古)

 

1707年:大ブリテン王国成立

アン女王の治世中の1707年にイングランドスコットランドは合同して大ブリテン王国(グレートブリテン王国)になった。

 

 

アイルランドの併合とアイルランド問題

1801年:グレートブリテンアイルランド連合王国成立

アイルランドがイギリスに併合される。

 

1828年:審査法廃止

1673年に制定された、審査法(官吏を国教徒に限定する)が廃止され、1829年にオコンネルらアイルランド人(ケルト系住民の多くがカトリック教徒)の運動の結果、国教徒以外でも公職につけるようになった。

 

1845年:ジャガイモ飢饉

100万人以上が死亡し、100万人以上の人々が英米に移住。

 

1886年アイルランド自治法案否決

 

1914年:アイルランド自治法成立(1920年公布)

イギリス人の多い北アイルランドはこれに反対して、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党と対立したため、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。シン=フェイン党などは反発して、一部の独立強行派は1916年に武装蜂起イースター蜂起)をおこしたが鎮圧された。

 

1922年:アイルランド自由国成立(自治領北部はイギリスの統治)

1937年:エーレ(エール)共和国に改称(イギリス連邦内の独立国)

1949年:アイルランド共和国成立(イギリス連邦離脱)

1969年〜1998年:北アイルランド紛争

英領北アイルランドで、少数派カトリック教徒のIRAアイルランド共和国軍)の英陸軍・警察への武力闘争。アイルランドカトリック系住民とイギリス・プロテスタント系住民は1998年に和平に合意したが、散発的な紛争は続いている。

 

「教科書で学ぶ世界史」アメリカ独立革命

●13植民地の成立

1607年:ヴァージニア植民地建設

1620年:メイフラワー号でピューリタンの一団がプリマスに定住

1664年:ニューアムステルダム(蘭)を奪いニューヨークと改称

1732年ジョージア植民地建設(13植民地の建設)

1755年〜1763年:フレンチ=インディアン戦争

イギリスとフランスの植民地戦争。この戦争に勝ったイギリスは、1763年のパリ条約で、カナダとミシシッピ側川以東のルイジアナ、フロリダ、西インド諸島の一部、セネガルを獲得。

 

●独立の機運

イギリス本国は、重商主義政策によって本国の商工業を保護するため、植民地の自由な貿易や工業の発展をおさえようとした。また、七年戦争終結後の財政赤字を軽減させるため、植民地への課税の強化などをはかった。

 

(印紙法って何?) 

イギリス本国は七年戦争の負債解消のため、北米での出版物などに課税する印紙法を制定したが、植民地の人々は、「代表なくして課税なし」と反対した。

 

ボストン茶会事件で何?)

1773年、イギリスはアメリカにおける紅茶の販売独占権を東インド会社に与えるという茶法を発布した。これに反発した植民地の人々が、ボストン湾に停泊していた東インド会社の船を襲い、商品の紅茶が入った箱を海に投げ込んだ。

 

 

 

アメリカ独立宣言(1776年7月4日)

圧政への抵抗権を主張したロックらの思想を参考にして、トマス=ジェファソンらが起草。フランクリン校閲

 

【抜粋】

自然法基本的人権

われわれは、次の真理を自明なものと認める。すべての人は平等につくられていること。彼らは、その創造者によって、一定の譲るべかざる権利を与えられていること。それらのなかには、生命、自由および幸福の追求がかぞえられること。

 

②社会契約説

これらの権利を確保するために、人々の間に政府が設けられ、その正当な権力は、被治者の同意にもとづくこと。

 

③革命権(抵抗権)

どんな形態の政治でも、この目的に有害なものとなれば、それを変更または廃止して新しい政府を設け、その基盤となる原理、その組織する権力の形態が彼らの安全と幸福をもたらすに最もふさわしいと思われるようにすることは、人民の権利であること。

 

独立戦争からアメリカ独立承認まで

1775年:レキシントンとコンコードの戦い

植民地側(総司令官:ワシントン)とイギリス本国側の武力衝突

1777年:ラ=ファイエットの仏義勇兵到着

1778年:フランス参戦

1779年:スペイン参戦

1780年:オランダ参戦

1780年武装中立同盟結成(ロシアのエカチェリーナ2世が提唱)

イギリスと対立していた、フランスやスペインの参戦、武装中立同盟(ロシア・プロイセンスウェーデンデンマークポルトガル)は、中立国の航行の自由をイギリスに要求し、イギリスは国際的に孤立。

1781年:ヨークタウンの戦い(英、決定的敗北)

1783年:パリ条約(英、アメリカ独立を承認)

 

●合衆国憲法の制定(1787年

人民主権

人民主権を基礎とした共和制を採用

②連邦主義

各州に大幅な自治を認めながらも、中央政府の権限を強化する。

連邦政府)軍事、外交、通商規制など一定の権限

(州政府)その他の権限

三権分立

(行政権)大統領の率いる政府

立法権連邦議会

・上院(各州2名、任期6年)

・下院(各州の人口比で代表が選出される)

司法権)連邦最高裁判所

 

1789年:ワシントン初代大統領就任

「教科書で学ぶ現代社会」イランとアメリカの関係

 

●イランとアメリカはなんで対立しているの?

(1979年イラン=イスラーム革命)

1963年、アメリカが援助するパフレヴィー2世の白色革命によるイランの近代化が進んだ。しかし、その後貧富の差が拡大しデモ・暴動が多発。

 

1979年、シーア派指導者ホメイニを中心とするイラン=イスラーム革命によってイラン=イスラーム共和国が成立。革命のさなか、 イランのテヘランアメリカ大使館が革命派の学生に占拠され、大使館員が52名が人質となった。人質は444日後に開放された。

 

(1980年イラン=イラク戦争

1980年、国境問題に端を発し、イランとイラクが対立。イラン=イスラーム革命の拡大を恐れるサウジアラビアアメリカはイラクフセイン政権(スンナ派)を支援した。

 

イラクフセイン政権からシーア派政権へ)

イラン=イラク戦争の財政難打開をはかるため、イラクは1990年8月に産油国クウェートに侵攻。翌91年1月、アメリカ軍を中心とする多国籍軍イラクに対して軍事行動を開始し、2月にクウェートは開放された(湾岸戦争)。

 

2003年には、イラク大量破壊兵器所有を主張したアメリカが、イギリスとともにイラク攻撃を開始。フセイン政権は崩壊し、2006年12月にはフセイン元大統領の死刑が執行された。

 

その後、フセイン政権崩壊で公職を追放された官僚などによって、ISIL(イスラム国)が組織された。イラクフセイン政権下で少数のスンナ派の勢力が、多数のシーア派を従えている体制だったが、フセイン政権崩壊後、2006年に発足したマリキ政権以降、シーア派政権が続き、同じくシーア派のイランの影響下に置かれるようになった

 

イラクがイランの影響下に置かれているのはなんで?

サダム・フセイン政権(スンナ派)が倒れた後にイラクの政権を握ったシーア派政権はもともとイランとの関係は深かった。フセイン政権崩壊で公職を追放された官僚などによって組織された、ISIL(イスラム国)との戦いでは、イラク政府軍に加えてシーア派民兵が参加。その民兵組織が「人民動員隊(PMF)」で、イラン革命防衛隊コッズ部隊の指導下にあった。その工作を指揮していたのがソレイマニ司令官。そのソレイマニ司令官が、2020年1月3日の米軍の無人機によるイラクバグダッド国際空港への攻撃により殺害された。

 

●ソレイマニ司令官が殺害されたのはなんで?

事実上、イラク政府の実権を牛耳っていたイランに対し、イラク民衆内で反政府デモや反イランデモが広がった。ソレイマニ配下の民兵がこれを弾圧。さらにソレイマニ配下の民兵アメリカ軍基地をロケット弾攻撃。これに対し、アメリカはソレイマニ配下の拠点数カ所を空爆。その後、ソレイマニ配下の民兵中心にアメリカ大使館放火など過激化していた。このようなさなか、ソレイマニ司令官は殺害された。

※ソレイマニ司令官は、20年以上にわたりコッズ部隊を率いてきた破壊工作のプロで、イランのハメネイ最高指導者から海外でのテロ作戦などの謀略・破壊工作の全権を任されていたそう。

【参考】

jbpress.ismedia.jp