陸軍軍医総督という、軍医としての最高位でありながら、文学活動を通じて日本の文学界に多大な影響を与えた森鴎外。西周からの影響や、ドイツ留学の影響など今後掘り下げて調べてみたいテーマが多くあります。日本の近代化について否定的な発言をしたドイツの地質学者ナウマンに対して新聞紙上で公開論争を挑んだり、坪内逍遥との没理想論争など、論争好き、攻撃的な一面も持つ鴎外の思想も掘り下げていきたいところです。まずは、森鴎外の略歴を辿っていきます。
【幼少期】
・1862(文久2)〜1922(大正2)
・島根県に生まれる。
・森家は津和野藩主亀井家の典医(主治医)を務める家柄で、その長男として生まれた鴎外は幼少期から厳しい教育を受けて育った。
・1872年(明治5)上京し、同郷の親戚である哲学者で啓蒙家の西周の家に寄宿して、医学部に必須の教養であるドイツ語を学ぶ。
1874年(明治7年)東京医学校予科(東京大学医学部)に入学(12歳)。このとき鴎外は規定の年齢に達していなかったため、年齢を2歳偽って入学。19歳という開校以来最年少で卒業。卒業後は、文部省の留学生になることを望んだが果たせず、陸軍軍医になった。
【ドイツ留学】
1884年(明治17年)陸軍省からの命を受け、念願だったドイツ留学を果たす。ドイツでは近代細菌学の開祖とされるコッホらに師事して衛生学を学んだ。
【帰国後文学活動スタート】
帰国後、鴎外は陸軍軍医として勤務する傍ら、文学活動もスタート。1889年(明治22年)赤松登志子と結婚するも1年で離婚。その後、ドイツ三部作と呼ばれる作品を発表。
※ドイツ土産三部作
雅文(平安時代の文体を模した文章)による流れるような格調高い文章と、ドイツでの恋の経験に基づく浪漫的な作風にうよって近代人の葛藤を描き出し、近代文学の礎を築いた。
「舞姫」(1890)
「うたかたの記」(1890)
「文づかひ」(1891)
人情・世帯風俗をあるがままに描き出す写実主義を提唱した逍遙に対し、鴎外は理想を重視する浪漫的立場をとって、写実主義を批判。
【1899年(明治32年)九州の小倉に左遷】
攻撃的な文学活動が周囲や上司の反感を買い九州の小倉に左遷。小倉の3年間は鴎外に人間的な成熟をもたらし、その後の作品にも大きな変化をもたらした。
【帰京後】
1907年(明治40年)軍医としての最高位、陸軍軍医総督に就任。1909年(明治42年)
雑誌「スバル」創刊。反自然主義の立場から「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」などを立て続けに発表。
※ヰタ(いた)・セクスアリス:題名はラテン語で「性欲的生活」を意味する。
1912年(明治45年)明治天皇が崩御し、続いて陸軍大将の乃木希典が殉死すると、以前から乃木と親交を結んでいた鴎外は、彼の告別式当日、主君への殉死を描いた「興津屋五右衛門の遺書」の草稿を出版社に寄せた。以降、鴎外は「山椒大夫」「高瀬舟」などの歴史小説を次々に発表するようになる。さらに、鴎外の関心は史料を観照的に眺め、ありのままに描くことに向かった。