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教育・仕事・生活

「教科書で学ぶ世界史」17世紀〜17世紀の危機と再編〜

①ヨーロッパ

〈ドイツ〉

三十年戦争(1618〜1648)

ウェストファリア条約(1648)

神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成が遅れていた。1618年、オーストリアの属領ベーメンボヘミア)の新教徒が、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に反抗したのをきっかけに三十年戦争がおこった。この戦争の一つの軸は旧教対新教で、スペインは旧教側ハプスブルク家の皇帝を支援し、新教国デンマークはこれと戦った。

 

傭兵隊長ヴァレンシュタインの率いる皇帝軍が優勢になると、バルト海の覇権を目指す新教国スウェーデンの国王グスタフ=アドルフが戦いに加わった。

 

旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかいはじめるなど、三十年戦争は宗教対立をこえたハプスブルク家対フランスの戦いでもあった。

 

三十年戦争は1648年のウェストファリア条約終結したが、講和条約が大半のヨーロッパ諸国が参加した国際会議でまとめられたことは、ヨーロッパの主権国家体制の確立を示すものだった

 

これにより、ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され、帝国における諸侯の分立状態は決定的となった。

 

〈イギリス〉

ピューリタン革命(1642)

 

1640年、国王は議会と対立するとすぐに議会を解散したが、財政上の必要から、同年秋に再び議会を招集した。この議会も国王を激しく批判し、42年には王党派と議会派のあいだに内戦がおこった。独立派のクロムウェルは、ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編成し、議会派を勝利に導いた。その後、彼は議会から長老派を追放し、1649年にはチャールズ1世を処刑し、共和政をうちたてた。

 

英蘭戦争(1652)

1651年に制定された航海法は、イギリスとその植民地への輸入品をイギリスか原産国の船で輸送することを定めて、中継貿易で繁栄していたオランダに打撃を与えた。このため、両国間に英蘭戦争がおこった。戦いはイギリス優勢のうちに終わった。

 

名誉革命(1688)

権利の章典制定(1689)

クロムウェルは厳格な軍事的独裁体制をしいたが、国民の不満が高まり、彼の死後チャールズ1世の子が国王チャールズ2世として迎えられた。1670年末頃には、国王の権威を重んずるトーリ党と、議会の権利を主張するホイッグ党という今日の政党の起源となる2つの党派が誕生した。

 

ジェームズ2世カトリック絶対王政の復活につとめたので、1688年に両党派はオランダ総督のウィレム3世を招いた。ジェームズ2世は抗戦をあきらめて亡命。翌89年、ウィレム・メアリ夫妻は議会がまとめた権利の宣言を受け入れて、ウィリアム3世とメアリ2世としてともに王位についた。議会は1689年末、この宣言を権利の章典として制定した。これは、国民の生命・財産の保護などを定めたもので、ここに議会主権に基づく立憲王政が確立された

 

〈フランス〉

1661年、宰相マザランの死後、国王ルイ14世が親政を開始し、強大な権力をふるって「太陽王」と呼ばれた。彼はヴェルサイユに大規模な宮殿を建造し、宮廷には貴族や芸術家が集められた。

 

②南アジア

ムガル帝国(1526〜1858)

アウラングゼーブの治世〉

ムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブの時代に最大の領土となった。イスラーム教に深く帰依したアウラングゼーブは、ヒンドゥー教寺院の破壊を命じ、人頭税(非イスラム教徒に課される税金)を復活するなどヒンドゥー教徒を圧迫して反発を招いた。こうした情勢のなかで、各地で農民反乱が生じ、また地方勢力が着実に力をつけて独立への動きを示した。西インドではヒンドゥー国家の建設を目指すマラーター王国が登場した。

 

③中国

※明(1368〜1644)

※清(1636〜1912)

〈明の滅亡〉

16世紀後半から17世紀前半には、北虜南倭につづいて、朝鮮半島や東北地方にも戦争が広がり、明は軍事費の増加のために財政難においちった。重税と飢饉のために各地で反乱がおこり、李自成の反乱軍に北京を占領されて滅亡した。

 

清朝の統治〉

李自成が明を滅ぼすと、長城の東端の山海関で清軍の侵入を防いでいた明の武将呉三桂は清軍に降伏し、清軍は長城内にはいって北京を占領した。第4代の康熙帝(こうきてい)は、厳しい海禁政策鄭氏の財源をたち、鄭氏を降伏させて台湾を領土とするとともに、三藩の乱を鎮圧して清朝統治の基礎を固めた。

 

④日本

〈江戸時代〉

徳川家康江戸幕府を開く(1603)

・オランダ人の来航を長崎に限定(鎖国の完成)(1641)

「教科書で学ぶ世界史」16世紀〜世界の一体化のはじまり〜

①ヨーロッパ

大航海時代

・ヴァスコ=ダ=ガマ(ポルトガル)、カリカットに到着(1498)

ポルトガルの商人は15世紀初頭にアフリカ西岸の探検に乗り出していたが、「航海王子」エンリケがこの事業をさらに推進し、ジョアン2世治世の1488年、バルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に達した。1498年には、ヴァスコ=ダ=ガマがインド西岸のカリカットに到達し、香辛料を手に入れた。インド航路の開拓は国営事業としておこなわれ、それによって実現した香辛料の直接取引はポルトガルの王室に莫大な利益をもたらした

 

コロンブス(スペイン)、サンサルバドル島に到着(1492)

アジアへの進出でポルトガルにおくれたスペインでは1492年に女王イサベルが、ジェノバ生まれの船乗りコロンブスの船団を「インド」に向けて派遣した。コロンブスは、大地は球形で、大西洋を西に向かってすすむほうが「インド」への近道であるとする、フィレンツェ天文学者トスカネリの説を信じ、大西洋を横断してバハマ諸島のサンサルバドルに到達した。彼はその後、今日のアメリカ大陸にも上陸したが、これらの土地を「インド」の一部だと思いこんでいたため、先住民をインディオ(インディアン)とよんだ。その後、イタリア出身のアメリゴ=ヴェスプッチ南アメリカ探検によって、コロンブス以来探検がすすんでいた土地が、アジアとは別の大陸であることが明らかになり、この大陸は彼の名にちなんでアメリカ」と名付けられた。

 ・カブラルがブラジルに漂着し、この地をポルトガル領に(1500)

・マゼラン艦隊世界周遊(1519〜1522)

 

〈宗教革命のはじまり〉

・ルター【九十五カ条の論題】(1517)

ドイツ中部ザクセンヴィッテンベルグ大学神学教授マルティン=ルターは、魂の救いは善行にはよらず、キリストの福音(ふくいん)を信じること(福音信仰)のみによるとの確信から、贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)の悪弊を攻撃する九十五カ条の論題を発表した。ルターの主張がドイツ各地に伝えられると、教皇庁の搾取に反発する諸侯や市民、領主の搾取のもとにあった農民など、広範な社会層がそれを支持した。

 

アウクスブルクの和議(1555)

ルターの説に影響を受けたミュンツァー農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争を指導して処刑された。ザクセン選帝候をはじめ、ルターの教えを採用した諸侯は、カトリック教会の権威から離れ、領内の教会の首長となり、修道院の廃止や教会儀式の改革などをすすめた。その後、ドイツではカール5世イタリア戦争オスマン帝国によるウィーン包囲などの国際情勢のために、しばしばルター派との妥協に迫られた。旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の争いはシュマルカルデン戦争にまで発展したが、1555年、アウクスブルクの和議が成立した。

 

 

アメリ

・コルテル(スペイン)、アステカ王国征服(1519〜1521)

ピサロ(スペイン)、インカ帝国征服(1532〜1533)

・スペイン、ポトシ銀山発見(1545)

スペインの植民地では、聖職者のラス=カサスのように、先住民の救済につとめた人物も一部には存在したが、多くの場合、抵抗を続ける先住民を植民者が労働力として酷使した。また、ヨーロッパから伝染病がもたらされた結果、先住民の人口は激減した。

 

世界商業圏の形成は広大な海外市場を開くことで、すでに芽生え始めていた資本主義経の発達を促した。また、ラテンアメリカ(メキシコ以南の地域)の銀山から大量の銀が流入し、ヨーロッパの物価は2〜3倍に上昇した。この物価騰貴は価格革命と呼ばれ、固定地代の収入で生活する領主は打撃を受けた。

 

③西・中央アジア

オスマン帝国(1299〜1922)

サファヴィー朝の興隆〉

ティムール朝が衰えた後、イランでは神秘主義教団の長イスマーイール武装した遊牧民の信者を率いてタブリーズを占領し、サファヴィー朝を開いた。サファヴィー朝は国内統一のためにシーア派を国教とし、古代以来イランの王を意味するシャーの称号をもちい、イラン人の民族意識の高揚につとめた。サファヴィー朝は、アッバース1世のときに最盛期を迎えた。新首都イスファハーンを建設して、美しいモスク・学校・庭園などで首都をかざった。

 

④南アジア

ムガル帝国(1526〜1858)

ムガル帝国の成立〉

ティムールの子孫バーブが、カーブルを本拠にして北インドに進出し始めた。バーブルは1526年のパーニーパットの戦いデリー=スルタン朝最後のロディー朝の軍に勝利をおさめ、ムガル帝国の基礎を築いた。帝国の実質的な建設者は第3代皇帝アクバルで、中央集権的な統治機構を整え、首都をアグラに移した。

 

⑤中国

※明(1368〜1644)

〈北虜南倭〉

16世紀半ばに、北方のモンゴル、東南海岸の倭寇の活動が激化して明を苦しめた(北虜南倭)。明は従来の貿易統制政策を続ける事ができず、モンゴルと講和して交易場をもうけるとともに、海禁をゆるめて民間人の海外貿易を許した。

 

⑥日本

室町時代

ポルトガル人、種子島来航(鉄砲伝来)(1543)

・フランシスコ=ザビエル、キリスト教を伝える(1549)

織田信長室町幕府を滅ぼす(1573)

安土桃山時代

豊臣秀吉、全国統一(1590)

文禄の役(1592)

慶長の役(1597)

 

「教科書で学ぶ世界史」15世紀〜百年戦争終結とビザンツ帝国滅亡〜

①ヨーロッパ

百年戦争終結

崩壊寸前のフランス王国は、国を救えとの神の託宣を信じた農民の娘、ジャンヌ=ダルクがあらわれ、フランス軍を率いてオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。

 

これよりフランスは勢いをもりかえし、カレーを除く全国土からイギリス軍を追い出して戦争はフランスの勝利に終わった。この長期の戦争のため、フランスでは諸侯・騎士が没落した。一方、シャルル7世は大商人と結んで財政を立て直し、常備軍を設置したので、以降、中央集権体制が急速に進展した。

 

〈イギリスのバラ戦争〉

戦後のイギリスではランカスター・ヨーク両家による王位継承の内乱がおこった。これをバラ戦争という。イギリスの諸侯・騎士は両派にわかれて激しくたたかったが、その結果、彼らは没落した。内乱をおさめたランカスター派ヘンリが1485年に即位し(ヘンリ7世)デューダー朝を開いた。彼は統治制度を整え、王権に反抗するものを処罰して絶対王政に道を開いた。

 

スペイン王国の成立〉

イベリア半島は8世紀初めにイスラーム教徒が西ゴート王国を滅ぼし、後ウマイヤ朝をたてた。北部のキリスト教徒は、以降約800年にわたり、国土回復運動(レコンキスタの戦いを続け、12世紀半ばまでには半島の北半分がキリスト教圏にはいった。回復された領土にはカスティリャアラゴンポルトガルの3王国がたてられたが、その後カスティリャ王女イザベルアラゴン王子フェルナンドの結婚により、両国は1497年に統合されてスペイン(イスパニア)王国が成立した。

 

オスマン帝国によるビザンツ帝国の滅亡〉

セルジューク朝期からビザンツ領内に進出していたトルコ人は、13世紀末頃アナトリア西北部にオスマン帝国の基礎を築き、やがてバルカン半島に進出してアドリアノープル(現在のエディルネ)を首都にした(1366年)。1396年、バヤジット1世ニコポリスの戦いでバルカン諸国とフランス・ドイツの連合軍を撃破したが、その後、アナトリアに進出したティムールと衝突し大敗した。

 

その後、国力を回復させたメフメト2世は、1453年コンスタンティノープルをおとしいれ、ビザンツ王国を滅ぼした。

 

②中国

※明(1368〜1644)

鄭和の南海遠征〉

・靖難(せいなん)の役(1399〜1402)

永楽帝即位(1402)

鄭和、南海遠征(1405)

北平(北京)に本拠をおいた燕王は、洪武帝の死後、位を継いだ建文帝が諸王勢力の削減をはかると、これに対抗して挙兵(靖難の役)。南京を占領して帝位についた永楽帝。彼は首都を北京に移して積極的な対外政策をとり、北方では自ら軍を率いてモンゴル高原に遠征し、南ではベトナムを一時占領した。またイスラーム教徒の宦官、鄭和に命じ、艦隊を率いてインド洋からアフリカ沿岸にまで遠征させた。艦隊は7回派遣され、南海諸国の明朝に対する朝貢を勧誘した。

 

〈明とモンゴルとの関係〉

・土木の変(1449)

モンゴル諸部族は明との交易を求めていたが、朝貢制度による回数や規模の制限を不満としてしばしば中国に侵入した。15世紀半ばに西北モンゴルオイラトがエセン=ハンのもとで強大となり、明の正統帝土木堡(どぼくほ)でとらえ(土木の変)、北京を包囲した。この頃から明は対外的に守勢に転じ、北方の長城を改修してモンゴルの侵入に備えた。

 

③日本

室町時代

勘合貿易日明貿易)開始(1404)

琉球王国成立(1429)

中山王によって統一された琉球は、明との朝貢貿易で得た物資をもちいて東シナ海南シナ海を結ぶ貿易の要となった。

〈戦国時代〉

応仁の乱(1467〜1477)

将軍家や管領家のあとつぎをめぐる対立。

「教科書で学ぶ世界史」14世紀〜教皇権の衰弱とモンゴル帝国の衰退〜

①ヨーロッパ

教皇権の衰退〉

十字軍の失敗から、教皇の権威が傾き始め、各国で王権がのびるとさらに衰えをみせるようになった。

 

・アナーニ事件(1303)

13世紀末に教皇になったボニファティウス8世は、教皇権の絶対性を主張し、聖職者への課税に反対してイギリス・フランス国王と争った。しかし、1303年、教皇フランス国王フィリップ4世にとらえられ、まもなく釈放されたが屈辱のうちに死んだ。

 

教皇のバビロン捕囚(1309〜1377)

教会大分裂(1378)

フィリップ4世はその後、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、以降約70年間、教皇はフランス王の支配下におかれた。これを古代のバビロン補囚にたとえて教皇のバビロン補囚」という。その後、教皇がローマに戻ると、アヴィニョンにもフランスの後押しをうけて別の教皇がたち、両教皇がともに正当性を主張して対立した。これを教会大分裂大シスマ)とよぶ。

 

〈イギリス・フランスの百年戦争

百年戦争(1337〜1453)

・クレシーの戦い(1346)

・ジャックリーの乱(1358)

フランス国王は毛織物産地として重要なフランドル地方を直接支配下におこうとしたが、この地方に羊毛を輸出して利益をあげていたイギリス国王は、フランスがこの地方に勢力を伸ばすことを阻止しようとした。カペー朝が断絶してヴァロワ朝がたつと、イギリス国王エドワード3世は、母がカペー朝出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに両国の間に百年戦争が始まった。

 

はじめイギリス軍がクレシーの戦いでフランス騎士軍を破るなど優勢で、エドワード黒太子の活躍によりフランス南西部を奪った。フランス国内はさらに黒死病(ペスト)の流行やジャックリーの乱(農民一揆)などで荒廃し、シャルル7世のときには王国は崩壊寸前の危機にあった。

 

②西・中央アジア

モンゴル帝国の解体〉

ティムール帝国形成(1370〜1507)

14世紀に入ると、ユーラシア大陸全域に天災が続き、モンゴル支配下の各地では内紛により政権が動揺した。チャガタイ=ハン国では分裂抗争のなかからティムールが頭角をあらわし、イル=ハン国の支配していたイラン・イラクにまでいたる広大な地域に領土を広げた。キプチャク=ハン国では14世紀半ば頃から内紛によって政権の統合がゆるみ、やがてモスクワ大公国がしだいに勢力をのばした。

 

③中国

※元(1271〜1368)

※明(1368〜1644)

〈明による統一〉

・紅巾の乱(1351〜1366)

朱元璋洪武帝)が明を建国(1368)

中国でも放漫財政や内紛で元の統治がゆらいだ。紅巾の乱をはじめとして各地で反乱がおこり、反乱のなかで頭角をあらわした貧農出身の朱元璋は、儒学の素養をもつ知識人の協力を得ながら、長江下流域の穀倉地帯をおさえ、1368年に南京で皇帝の位につき洪武帝、明朝をたてた。明軍に追われた元の帝室はモンゴル高原に退き(北元)、明は南京を都として中国を統一した。

 

④朝鮮

※朝鮮(1392から1910)

李成桂、朝鮮を建国〉

元に服属していた高麗でも、親元派と反元派の対立が続いたが、倭寇を破って名声をあげた李成桂が高麗を倒して1392年に王位につき、朝鮮王国をたてて漢城(現在のソウル)に都をおいた。

 

⑤日本

鎌倉時代

鎌倉幕府滅亡(1333)

南北朝時代

後醍醐天皇建武の新政(1333)

室町時代

足利尊氏征夷大将軍となる(1338)

足利義満、幕府を京の室町に移す(1378)

足利義満南北朝を統一(1392)

 

「教科書で学ぶ世界史」13世紀

①ヨーロッパ

〈十字軍とその影響〉

第四回十字軍ヴェネツィア商人の要求にせまられて聖地回復の目的をすて、その商業上のライバルであるコンスタンティノープルを占領してラテン王国をたてた。その後も第七回まで十字軍はおこされたが、聖地回復の目的はついに達成されなかった

 

十字軍の参加者の動機はそれぞれ複雑にからみあったもので、教皇はこれを機会に東西両教会を統一しようと企て、諸侯は領地や戦利品を望み、イタリア諸都市は商業的利益を拡大しようとした。

 

あいつぐ遠征の失敗により、教皇の権威は揺らぎ始め、逆に遠征を指揮した国王の権威は高まった。また、十字軍の輸送によりイタリアの諸都市は大いに繁栄し、地中海貿易による東方との交易が再び盛んになりだした。

 

②東アジア・西アジア中央アジア

モンゴル帝国の形成〉

12世紀初めに遼(契丹が滅びると、モンゴル高原の諸部族の間にで統合の動きが強まった。高原東北部のモンゴル部族の中で勢力を伸ばしたテムジンは1206年のクリルタイモンゴル語で集会)でハン(君主の称号)位(チンギス=ハン)につき、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統一して大モンゴル帝国を形成した。

 

・インド

その後、チンギス=ハンは騎馬軍を率いて、草原・オアシス地帯に支配を広げた。モンゴル軍は西遼を奪ったナイマンおよび西トルキスタン・イラン方面新興国家ホラズム=シャー朝を倒して西北インドに侵入し、また西夏を滅ぼした。

 

・中国

チンギス=ハンの死後即位したオゴタイを滅ぼし華北を領有するとともに、モンゴル高原カラコルムに都を建設した。

 

・東ヨーロッパ

ついでバトゥの率いる軍は西北ユーラシアの草原を制圧して東欧に侵入し、ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破ってヨーロッパ世界を脅かした。

 

西アジア

西アジアではフラグバグダードを占領してアッバース朝を滅ぼした。

 

結果、13世紀半ばまでにモンゴルの支配は東は中国北部から西はロシア・イランにいたる広大な領域に広がった。この大領土のなかには、イラン・イラク方面のイル=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国中央アジアチャガタイ=ハン国など、チンギス=ハンの子孫たちがおさめる地方的政権がつくられ、それらが大ハンのもとにゆるやかに連合するという形をとった。しかしそれらの諸勢力のあいだでは大ハン位をめぐる相続争いもしばしばおこった。

 

〈元の東アジア支配〉

相続争いを経て即位した第五代のフビライは、自分の勢力の強い東方に支配の重心を移し、大都(現在の北京)に都を定め、国名を中国風にと称し、南宋を滅ぼして中国全土を支配した。フビライモンゴル高原と中国を領有したほか、チベットや高麗を属国とした。さらに日本・ベトナムチャンパービルマ・ジャワにも遠征軍を送った。その遠征は強い抵抗にあって多くの場合目的を達成できなかった

 

③日本(鎌倉時代

北条時政、執権就任(1203)

承久の乱(1221)

後鳥羽上皇が全国の武士に呼びかけて幕府を討とうとしたが、北条氏の率いる幕府軍に破れ、隠岐島根県)に流された。

御成敗式目制定(1232)

執権北条泰時武家社会のおきてや裁判の基準を定めた御成敗式目が制定された。

文永の役(1274)

元の日本遠征。3万の元軍が、約900隻の軍船に乗り襲来。暴風雨により大きな被害を受け撤退。

弘安の役(1281)

元の二度目の遠征。14万の大軍で北九州に攻め寄せたが、ふたたび暴風雨によって壊滅的な損害を受け退却。

「21世紀型スキルの育成④」授業の価値は問いで決まる

引き続き、国立教育政策研究所の「資質・能力を育成する教育課程の在り方に関する研究報告書1」から、授業運営の参考になる点を整理していきます。

 

報告書では、問題解決型の学習が「子供自身の問題発見」から出発するだけでなくても良いことや、教師の与える本質的な問題への解決が、子供の次の疑問(問い)の発見につながる可能性があることが提示されています。

 

また、外国につながりを持つ生徒が多い新宿区立大久保小学校の事例として、「ドリルの反復」よりも、「探求型の学習」に切り替えて、課題を追求する中で日本語を使った方が日本語の読み書きの技能が習得されやすくなったことが紹介されています

 

さらに、知識構成型ジグソー法の紹介で、豊臣秀吉はどのような社会をつくったのか」という問に対して「身分統制令」「刀狩令」「太閤検地」に関わる資料を分担して内容を読み込み、3人組で意見を交換して答えを出す場合と、豊臣秀吉が作った3つの制度について学ぼう」という問いを比較し、「知識の統合を求める問い」の重要性が提示されています。

 

これらの事例から考えると、授業の価値は「問い」で決まると言えるのではないでしょう。

 

報告書を一通り読み終えた上で、今後、以下の認識を明確にして授業運営していこうと考えています。

 

①「学ぶ」とは自分なりの世界のモデルを創り変えていくこと

②「活用できる知識」とはコミュニケーションで使えるということ

③「活用できる知識」にするために、理由や根拠まで問題を深く追求して納得する経験を積むこと

④「モデルを創り変える」「活用できる知識になっているか確認する」ために、「省察」の時間を確保すること。

※「モデルを創り変える事」「他者とのコミュニケーション」の過程を通じて、新たな問い(自発的な問い)が生まれる。

 

知識構成型ジグゾー法の実践事例も参考にしながら、効果的な「問い」の設定にこだわっていきます。

 

【参考】

www.nier.go.jp

 

「教科書で学ぶ世界史」12世紀

①ヨーロッパ

ヴォルムス協約

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世教皇グレゴリウス7世との間で始まった叙任権闘争は、皇帝が教皇に謝罪したカノッサの屈辱以降、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立し、叙任権闘争は集結した。教会の権威は西ヨーロッパ全体に及ぶようになり、教皇権は13世紀のインノケンティウス3世のとき絶頂に達した。

 

〈第二回・第三回十字軍〉

第一回十字軍で、イェルサレムを占領して、イェルサレム王国をたてたが、その後勢いをもりかえしたイスラーム勢力に対し、第二回十字軍がおこされた。ついで、アイユーブ朝サラディンに再び奪われた聖地を回復するために、神聖ローマ皇帝・フランス国王・イギリス国王が参加して第三回十字軍がおこされたが、いずれも成功しなかった。

 

②西・中央アジア

セルジューク朝(1038〜1194)

ムワッヒド朝(1130〜1269)

※ゴール朝(1148〜1215)

アイユーブ朝(1169〜1250)

アイユーブ朝の樹立〉

エジプトにアイユーブ朝を樹立したクルド人サラディン(サラーフ=アッディーン)は、ファーティマ朝を倒してスンナ派の信仰を回復し、1187年には十字軍を破って88年ぶりに聖地イェルサレムを奪回した。

 

③中国

※宗(北宋)(960〜1127)

※宗(南宋)(1127〜1276)

〈北方勢力と宗の関係〉

12世紀初めに完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)が契丹から独立して国号をと称した。宗は新興の金と結んで契丹を攻め、金の攻撃によって契丹は滅んだ。このとき、契丹の皇族耶律大石(やりつたいせき)は中央アジアに逃れて国家をたて(西遼)契丹の文化を西方で維持した。

 

契丹の滅亡後、宋と金は領土をめぐって争い、金は華北に侵入して宗の都開封を占領した(靖康(せいこう)の変)。そこで、皇帝の弟の高宗が江南に逃れて帝位につき、南宋をたて、臨安(現在の杭州)を首都とした。政治抗争の焦点は金に対する政策へと移り、和平派と主戦派との対立の末、結局和平派が勝利をおさめて金とのあいだに和議を結んだ

 

④東南アジア

カンボジアでは、12世紀にヒンドゥー教や仏教の影響をうけながら独自の様式と規模をもつアンコール=ワットが造営された。

 

⑤日本

平安時代

保元の乱(1156)

後白河天皇崇徳上皇が、それぞれ武士を味方につけた争い。御白河天皇が勝利。

平治の乱(1159)

院政を始めた御白河上皇の近臣の対立。平氏が源氏を破り、源氏は棟梁の源義朝を失う。

平清盛太政大臣となる(1167)

源頼朝平氏を滅ぼし、全国に守護・地頭設置(1185)

鎌倉時代

源頼朝征夷大将軍となる(1192)